脳死臓器移植の恐ろしさ



 裏口入学や裏口入社の依頼を受けたことが、私には一度ならずある。正確にいえば依頼ではなく、懇願、いや哀願のほうがより事実に近い。「これで」と持参の札束を、幾つも卓上に積んでいう。「何とかお願いします。不足なら、まだ出しますから」。私は目もくれなかったが、かわいい子のため孫のためなら、万金を積んででもなお惜しくない風情だった。
 脳死になったら臓器提供の意志のある人(ドナー)は、臓器移植をしてもらいたい人(レシビエント)の数をはるかに下回る。レシビエントの希望や期待が熾烈化するのは、当然の成り行きだろう。
 臓器移植をしてもらう側の優先順位が、医学上の知見によっで決定されるならば、まことにもっとももな話だ。問題は、そのとおりにことが運ばれるかどうかだ。
 入学や入試のときですら裏口工作が行われる。権力者からは哀願され、金持ちからは膨大な額の金はおろか、全財産を傾けてもかけがえのない骨肉のため、優先順位の変更や繰り上げを求める「裏口」工作の行われないはずがない。当事者で、この種の誘惑に打ち勝ち得ると自信の持てる人がいるだろうか。つまり臓器移植法は、人の生命を権力と金力によって左右できる社会をつくってしまった、ということなのだ。たから私は、衆議院にあって「臓器の移植に関する法律案に疑問を持つ議員の会」の会長として反対に終始したのだった。
 さる二月二十五日夜のニュースに始まった脳死臓器移植騒ぎは、のちにマスコミ自体から反省の弁が出たほどに異常たった。脳死になったら潔くドナーになることが、人道的な正しい身の処し方であるかのような風潮がつくられた。つまりドナーにならない生き方をする者は非人道的だ、とする感覚なのだ。
 レシビエントとその家族が、ドナーの一刻も速やかな脳死判定を望むのは人情というものたろう。ここにおいて、他人の死を切実に願う社会が現出するのた。
 どんな深刻な容態であっても、脳死に至らないように必死の看護をするのが、家族であり、医療者の立場だろう。その努力にむしろ苦々しい思いでいる者が現れることのほか、脳死判定をされた者の家族が悲しみのドン底で、臓器摘出の同意を追られることにも注目すべきだ。
 脳死臓器移植法成立以前のことだが、関西の大病院で脳死判定が行われ、脳死者の遺族に対して臓器提供への同意が求められた。渋る遺族を医師、看護婦が、寄ってたかって説得、ついに応じさせたという事件だ。遺族の後日談によると、心臓提供には同意したものの、返されてきた遺体からは他の臓器も取り出されたうえ、角膜も入用だったのか、眼球まで「奪われ」た無残なものだったという。
 脳死者の担当医は、家族ほどではないにしても悲嘆中にあるはずだ。その悲嘆を尻目にドナーに対してメスをふるい、飛散する血潮のなかから動いている臓器を摘出する同僚医師の姿をどう見るかだ。
 私にとって恐ろしく思えてならないのは、脳死臓器移植を是とするあまり脳死判定後の遺族に有形無形の圧力のかかることた。戦時中の決死隊や神風特別攻撃隊(特攻隊)が外観上で志願の形を整えてはいても、有形無形の圧力や特殊な雰囲気の中で編成されていったことに、この際、思いを馳せたい。
 脳死判定について、今回は脳波の動きをめぐって一度は脳死判定が否定された。レシビエントの序列に変更のあったことも、注目と疑惑を招いた。ことは単純ではない。よくよく考えなければならない問題なのだ。



(これは、「財界3月30日号(1999年)」に掲載されたものです)




 
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