危機の日本農業と
その活路



 かつて河北文化賞を、岩手県住田町農業が受賞したことがあった。河北文化賞は東北ブロック紙の雄『河北新報』の設立した賞だ。それ以来住田町農業が「住田型農業」と呼ばれるようになった。
 住田型農業とは何か。河北文化賞の授賞対象となった農業とはどういうものなのか。
 今は故人だが、住田町の農協の組合長や町長を歴任した佐熊博という勝れた人物と親しかった関係もあって、私は住田型農業の何たるかを多少知っている町外の一人だと思う。
 住田型農業の出現するまでの日本の農業は、公的機関から勧められる作目をほとんど鵜呑みにしていた。自ら額に汗して農作物を作り、どの地域、どの時期が最も適しているかなど、体験のない机上のプランナーの言いなりになること自体、危険千万といわなければならない。当然、失敗をする。その尻を農林水産省に向ける。だからといって損失が補填されるわけでも何でもない。「農政はノー政だ」と罵るのが関の山だ。その反省に立って住田型農業が誕生したのだといってよいと思う。

「住田型農業」とは何か

 たとえば公的機関が住田町に特定の作物の生産を奨励してくる。ところが住田町はこれを鵜呑みにはしない。農・林・商工の三団体の代表が一堂に会してその是非を検討する。是であれば当然町を挙げで取り組む。そうでない場合は、この際いかなる作物を最適のものとして選ぶか真剣に検討する。その結果、キュウリが選ばれたとする。生鮮野菜の一品目として出荷する数量と漬物として出荷する数量とを計算のうえ、生産する。併せて漬物用のビニール袋やプラスティック製の容器が用意される―こういった具合なのだ。
 他から押しつけられるのではなくて、検討の結果、何が最適の産物であるかを知って始めただけに、事業の推進には殊更力が入る。生産性が高くなるのも道理だ。これこそ、これからの日本農業の進路として、大きな示唆を与えてくれるものではないかと考える。
 ただこのような動きが全国的になった場合、生産物に過剰と過小の出ることは充分予想される。そのような場合にこそ、公的機関すなわち農林水産省が適切な調整を果たす役割を担うべきなのだ。
 農民の生産意欲を殺がず高めるために、何としでも自主性、自発性を尊重することだ。そのためには生産者の希望作目について、第一から第三くらいまでの希望を書いてもらい、極力、第一希望を叶えるようにはするものの、それが何らかの理由で叶えられない場合に備えておくのだ。日本農業の在り方を、このように生産者の自主性、自発性を最大限に尊重していくのが喫緊事だと私は考える。
 つぎに大切なことは、農林漁業が環境保全に大きな役割を果たしている点を、深く認識することだ。環境保全のための対価ないし経済面の評価を、農林水産業に折り込むべきだとする意見に私も賛成だ。ただその価格の割り出しや計算式が、大方の合意と納得を得るまでには、時間的な経過を必要とするように思われる。問題は、その時間的な経過を待っていられるほどに、日本農業には余裕があるのだろうかということだ。
 細川内閣以降、コノの自由化が始まった。減反も、自由化と共に国際的な協約になった。コメ生産を中心にしてきた日本農業は、これではひとたまりもない。日本の米価はアメリカと比べても七倍、タイと比べるなら十倍といわれる。
 ボクシング、レスリング、柔道といった、いわば国際的にも市民権を得ている競技は、重量別に仕分けされて、同一重量級同士でなければ闘えないことは周知の事実だ。そして、そのことを誰もが不思議としない。これをコメにたとえていえば、ヘビー級とフライ級のコメを同一リング上で闘わせたらおかしくないか、ということなのだ。これが真に「自由化」の名に価するのだろうか。
 日本農業の衰退を如実に示すものは、人口の過疎化だ。それは農村に限られたことではない。地方の中小都市にも当てはまる。目抜き通りでも、ゴーストタウンを髣髴とさせる光景が現出している。かつて活気が漲っていた町並みが、死んだようになっている。それもそのはず、中小都市は外延部に行くにつれて、農林漁業の地域になって行くから、農林漁業が衰えれば、就業人口が滅少するのは当然なのだ。

有望な花卉生産

 今こそ、日本農業は発想の転換をしなければならない。農業が人間の胃の腑を満たす物を生産するのみではないことに、着目する必要がある。私は花卉生産を声を大にしで主張したい。
 日本国内の花の需要は、なぜか不祝儀用が圧倒的だ。この傾向は都会から地方に行くほど顕著のように見受けられる。おそらく家族間でさえ、おめでとうといいながら花を手渡す例は寥々たるものなのだ。しかし日本人の服装といわず生活様式といわず、いちいち例をあげるまでもなく結局、欧米化の途を辿ることは歴史が示している。花についても、遅かれ早かれ不祝儀用だけでなく花全体の需要が大きく伸びるはずなのだ。また花卉産業は、雰囲気的にも農材の嫁足解消に役立つかもしれない。
 通信機器の発達と普及によって、情報が瞬時に伝達されるようになった。花の市場価格をにらみながら売買したり、指し値を入れたりして、生産者の才覚の発揮できる御時世になった。ここまでくれば、才ランダのような国際花卉市場を日本に開設することも夢ではない。国家が発展段階を登って行くにつれて、花の需要は増大するという。そうであるならば、アジアは花の一大市場となるだろう。
 花卉産業は、しかし環境保全の経済価値が日本の農業に折り込まれるまでのいわばツナギだ。農業の根幹は、完全に平和な国際環境が整うまで、やはり食糧の自給自足が目標だからだ。

(1998・11・12)




(これは、「月刊ベルダ 12月号(1998年)」に掲載されたものです)




 
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