外国語習得の要諦
それは「只管暗誦」



 十二月に京都で開かれる国際会議(温暖化防止京都会議)のことがいつも頭から離れないせいか、新聞を読んでもテレビを見ても、いろいろな国際会議がこうも開かれるものかとその頻度に驚かされる。
 国際会議出席の経験が私には何回となくあるが、会議で用いられる公用語としての外国語の重要性は、出席のたびに思い知らされた。とにもかくにも出席者全員に理解される発言をしなければならない。そのためには出席者の発言の意味内容をまず埋解しなければならない。ポイントはこれだけのことだが、それがなかなか厄介なのだ。
 最近は外国語の上手な使い手が日本人にも結構増えているが、当代きっての英語の使い手に國弘正雄氏の名を挙げても、そう見当外れではあるまい。大学教授や参議院議員の経歴を有するこの人は、バリバリの革新系だ。これに対する私は白由民主党の党員になって四半世紀、この間、ただの一度も党籍を離れたこともなければ、離れようとしたこともない純粋保守派だ。そんな二人が親しいのは、いってみれば故三木武夫元首相ゆえだ。当時、私は三木武夫の秘書、國弘氏はその英語力を買われて三木外相の秘書官、という関係だった。親しくならない道埋がない。日本が戦争に敗れた昭和二十年八月、私は旧制中学一年生だった。國弘氏は四年生だったという。大東亜戦争下、英語は「敵性語」とよばれ、学ぶこと教えることはもちろん、口の端にのぼすことすら忌避されていた。
 これはまことに不思議な話で、『孫子』の兵法には「敵を知り自分を知るならば、何回戦っても負けない」という意味が書かれてあり、このことを当時の日本の指導者は知っていたはずなのに、敵の言葉を学ばず学ばせず、従って敵を知ろうとしなかったのだ。これで戦争に勝てる道埋がない。笑い話のような実話だが、「三振、アウト」を「三度振り、駄目」などといわせていたのだ。そのうえ野球そのものまで「敵性球技」の烙印が押されることとなり、ついに姿を消すことになったのだった。
 このような有様だったから、中学校ですら英語が教えられることはなかった。例外的に私たちの東京都立第四中学校では教えられていたが、これは極めて稀なケースではなかったかと思う。國弘氏の中学校では他の中学校と同しように、英語が教えられることはなかったと思う。
 私が不思議に思ったのは、外国語習得上もっとも大切な時期に、このように外国語を遠ざけられていた人が、そのハンディキャップを克服し、英語使いが達人の域にまで到達した秘訣は何であったかという点だった。

漢文素読で鍛えた暗誦力

 國弘氏の代表的な著作に『英語の話し方』という単行本がある。やや厚手なこの本の要諦は「只管暗誦」の四文字につきる。座禅の「只管打座」のひそみに倣って「只管暗誦」だというのだ。しかも暗誦すべき対象は中学一年から三年にかけての英語の教科書の本文で充分だというのだ。それ以上の単語や言いまわしは、原書や英米人との会話から自ずと身について行くともいうのだ。
「只管暗誦というけれど、あなたの暗誦の記憶力に敬服しますよ」
『英語の話し方』を読んだ後、國弘氏にお目にかかった時、私はそんなことを言った。
「記憶なんて大袈裟なものではなく、ま、習慣みたいなもの、いってみれば惰性でしょうか」と國弘氏は謙遜して、次のような話をしてくれた。
「実は私は小さい時から、漢文の素読をやらされていたのです。返り点や送つ仮名のない漢文を朗々と音読するわけです。それは漢文の暗誦を意味することでもあります。当時は日本が中国と交戦中であったにもかかわらず、なぜか敵性語の扱いをされず、堂々と学ぶことも、素読をすることもできました。戦争が終わり、いよいよこれからは英語の時代だと気がついた途端、素読の対象を漢文から英語に切換えたのです。それだけのことです。漢文の素読に馴染んでいたので、英語の暗誦には実に素直に違和感なく、容易に入って行けました。端的にいえば漢文も外国語です。素読で鍛えた暗誦力は、直ちに英語にも適用できたのです」
 欧米の知識階級はギリシャ、ラテンの文物を吸収するためにも、ギリシャ語とラテン語の習得に努めるといわれる。日本の知識階級もまた中国文化の理解のために、漢文に馴れ親しんだのだった。ところが敗戦を分岐点として、漢支が学ばれなくなり、その結果、漢文は私たちにとって縁遠い存在になってしまった。これは日本人にとっで由々しき問題だと私は考えている。園弘氏はこのように、自著の『英語の話し方』に書き込んだことよりも踏み込んだ体験を話してくれた。

母国語もしっかりしている

 私の曽祖父は毎朝息子に漢文の素読をさせ、それが満足できないうちは、朝食の箸をとることを許さなかったという。日本の教育熱心な家庭では、それが決して珍しいことではなかった。
 ドイツに渡った日からドイツ語の相当な使い手だったという森鴎外や、ロンドン留学組の夏目漱石などが、漢文の素養に並々ならぬものがあったことは広く知らけれている。二人は名文家でもあったが、それは漢文の素養あってのことだったと指摘する人もいる。芥川龍之介、田山花袋、永井荷風などの文人たちが漢籍にも明るく、同時に語学力が相当なものであったことに思い至れば、園弘氏の体験談にも得心がいく。
 漢文の素読がもたらした効果だろうか、園弘氏の日本語も見事なものだ。米国人の講演を通訳していた國弘氏が「Exaggeration」(誇張)を、事もなげに「針小棒大」と訳し去ったのに驚嘆した思い出がある。
 私見だが、真に外国語の上手な日本人は、日本語自体がしっかりしている。子どもの時ならともかく、大人になって外国語をものにした人なら、母国語がしっかりしていないはずはないし、またそうでなければならないと私は信じている。國弘氏はその好個の例だ。
 外国語が流暢になればなるはど、母国語がたどたどしくなるのは特別の場合を別とすれば、あれはインチキかハッタリだ。
 國弘氏は去る五月中旬、中国に渡って北京外国語大学で日本の政治の現状について講演をした。聴衆は日本語科の学生たちとはいえ、日本人相手と同じスピードで、いわば情け容赦なく話したのに、講演後の質疑によって、学生たちに完全に理解されていたことがわかったという。
「ドイツやフランスの政治家が、日本の外国語大学で同国人に対するのと同じ調子で講演した場合、日本の学生は北京の学生たちのようについて行けるだろうかと、つくづく考えてしまいました。彼らは質素な学生生活を送っており、寄宿舎を見せてもらったのですが、見すぼらしい小さな一室に七人もいるのです。しかし、彼らは一様に目が輝いていました。希望に満ち満ちた目の光でした」
 その時、私の頭には札幌農学校の生徒たちのことが浮かんだ。彼らを前にして、「ボーイズ・ビー・アンビシャス(Boys, be ambitious !)=青年よ、小成にやすんずるなかれ」(札幌農学校生徒の一人だった新渡戸稲造の訳)
 とクラーク先生が叫ばないではいられなかった黎明期の目本の青年たちも、きっと目を輝かせ、希望に満ち満ちていたのだという臨場感に襲われた。
 そのような青年たちを、日本は再び生み出せないものか−私の心は明治と平成の間を去来し続けた。

(1997・11・10)




(これは、「月刊ベルダ 12月号(1997年)」に掲載されたものです)




 
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