「安楽死」に
祖母を想う



 政治、経済、社会、どの面も景気対策一色の新聞記事の中で、去る十月四日の日本経済新聞が安楽死問題を取り上げた。この問題をめぐって米国内が揺れている、というのだ。
 記事に従って紹介すると、昨一九九七年十一月にオレゴン州で安楽死法が施行され、それから一年目にあたるこの十一月に、ミシガン州でも安楽死法案が住民投票に委ねられることになった。オレゴン州は米国で安楽死法が施行された一番目の州、住民投票の結果によってはミシガン州が二番目の州になる。
 オレゴン州の安楽死法施行までに九一年にはワシントン州で、翌九二年にはカリフォルニア州で、それぞれ住民投票が行われ、いずれも否決されるという前段があった。九四年のオレゴン州の場合でさえ、五一%対四九%という小差で成立したものの、憲法違反とする訴えによって、九七年一月に再投票があっで、その結果施行されたほどなのだ。
 反対はカトリックを中心に根強く、「安楽死は死ぬ権利ではなく、殺す権利だ」とか「医師による自殺幇助だ」とか喧しい。連邦議会では共和党が安楽死につながる医療行為を禁止する法案を提出しで、九月には下院の司法委員会で可決された。上下院の本会譲で可決されれば、安楽死は非合法となる。しかし世論に押されて安楽死反対派から脱落者が出つつあるという。現にミシガン州に続いて、メーン、アリゾナ、ハワイの各州でも住民投票の動きが起きつつある。

浅簿な早呑み込み

 安楽死は昨今とみに世界各国で問題となっている。日本でも近くは京都の医師が安楽死を行ったとしで槍玉にあげられた。今まで再三にわたって安楽死が報じられるたびに、思い出されてならないことが私にはあるのだ。
 医師だった母に九歳で死別した私は、同じく医師だった母方の祖母に引き取られ、育てられることになった。一緒に生活するようになって分かったことは、祖母が私に医師になることを切望していることだった。当初、私は祖母の希望に添うことも考えないではなかったが、そのうちに一顧だにしなくなった。それには、私なりの理由があった。
 小学校四年生の一学期から祖母の膝下で育てられるようになった私を待っていたのは、祖母のスパルタ教育だった。春夏秋冬、朝五時になると祖母に叩き起こされた。起きると冷水摩擦の励行だ。洗面と口濯ぎがおわると、庭に裸足でおっぽり出される。広い庭にはいろいろな樹木があったが、その中の形のいい梅の枝に、縄で薪が一本ぶら下げられている。これに向かって裂帛の気合と非に竹刀で百遍打込むのだ。それでやっと朝食ということになる。
 氷のような手拭の冬の冷水摩擦はさすがにこたえたが、担母も私と妹と同じことをやるのだった。私だけがやらされたのは庭の剣道の練習だった。冬も裸足であるため、小学生だった私の足はもちろん、手もシモヤケがひどく、春になると崩れてムズムズと痛痒く、やりきれない思いをするのだった。
 どのクラスにもいるオマセな子が私のクラスにもいた。その子の言っていたことを、コップの水を前にして口移しに私はしたり顔で祖母にいった。
「生水はからだに毒だから煮てね」
 褒められるとすら考えていた。ところが医師の祖母からはね返って来た言葉はこうだった。
「生水を飲んで死ぬなら死ね!おばあちゃまは生水で死ぬようになどお前のからだを鍛えていない!」
 私に対する祖母の教育は秋霜烈日の一語につきた。そのような教育と私を医師にしたい祖母の希望とが、私の内では噛み合わなかった。
 少年の私にも、医師がいい商売に思えた。祖母は周囲から「先生」とよばれるし、わが家は大切に扱われてもいた。厳しい教育を施しながら、一方では人生を楽に渡れる職業に就かせたいとするなど、祖母は孫可愛さから間違っている、と早呑み込みをして私は医師になることなど毫も考えないことにしてしまったのだ。浅慮この上もない早呑込みをそうと思い知ったのは、租母が亡くなってややあってからだった。

秋霜烈日の意味

 祖母が亡くなったのは昭和四十八年五月のことだったが、代議士になった私に向かってなお「お前が医師になってくれていたら」と言っていた祖母は、晩年こんなことを話したという。
「志賀先生の往診というと有名だったんだよ。患者の枕元にすわってものの一分もじっと顔を見つめていると、不思議なもので容態が判る。助かるか、駄目か。重いか、そうでないのか。だからその一分間が勝負だった。その時のおばあちゃまの姿を『志賀先生の往診』といったものなんだよ」
 快方に向かう者がいるし、駄目な者は見立で通り日に日に悪くなって行く。誰の目にも不治が明らかになり、断末魔の様相を呈する。社会福祉制度などない時代のことだったから、一家心中や殺人事件の導火線ともなりかねない悲惨な家庭環境が現出する。
「その時医師のなすべきことは、不治の病の苦悶の中にいる患者の延命か、それともより多くの生命を救うことか。答えはきまっているね。けれどもその結論を出すにも、それをいつにするにも、誰と相談するというわけにはいかない。その都度、自分との戦い、自分との息づまるような対話の中で、結論を出していかねばならない。医師というなりわいは、まことに孤独なものなんだよ」
「ということは、そういうことをなさってきたということなのですか?」
 その質問に祖母は唇を真一文字にキリッと結んで、何も答えなかったという。そのこと自体、総てを雄弁に物語っていた。
 この話を聞いた時のことだ、私が慟哭したのは。秋霜烈日の教育はこの孤独ななりわいに堪える心身をつくることにあった、と不肖の孫はやっと気づいたのだ。
 安楽死が法制化されない中にあって、良心に従って孤独にたえて真の医療に従事してきている人々に、私は心からの敬意を惜しまない。

(1998・10・10)




(これは、「月刊ベルダ 11月号(1998年)」に掲載されたものです)




 
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