低投票率の原因は
政治への不信だけか



 低投票率が指摘されるようになって久しい。国政、地方、いずれの選挙をとってみても低投票率に変わりはないが、地域民に関心のある地方選挙でさえ知事選挙などになると、関心の低さはおおうべくもない。
 去る九月十四日に行われた茨城県知事選挙の如きは、オール与党対共産党の一騎打ちという、選挙民の関心をそそらない構図だったにしても、投票率は三一・八七%と、ゼネコン汚職による出直し選挙となった前回の三九・二四%をはるかに下回り、過去最低の前々回(一九九一年)の三○・八九%に次ぐものだった。これは全国の知事選の低投票率では第八位だ。ちなみに第一位は八一年四月の千葉県知事選挙で、その時は二五・三八%という驚くべき数字を記録した。
 低投票率の原因については、政治や行政に対する有権者の不信感のあらわれとして、マスコミなどの論調は政治家に対して専ら厳しいが、果たしてそれが正しいのかどうか。

参政権への軽視

 人間にとって欠かせない空気や水は、労せずして自らのものとすることができるので、人間はこれらを貴重なものであることをまま忘れてしまうが、選挙権に対する感覚も空気や水同然になっているように思えてならない。
 最近、萩原延寿著『馬場展猪』なる労作を読む機会に恵まれたが、明治維新前後に欧米に留学した日本の著者たちが代議制政治に初めて触れ、驚き、魅せられ、その虜になった有様が活写されている。代議制政治とは、国政にも地方政治にも代表者を送り、彼らによって政治のあり方を議してもらう、今日われわれが現に自にしている形態だが、これと表裏一体をなすのが参政権だ。
 この権利を獲得するまでに、内外の先人たちがどれほどの血と涙と生命を犠牲にしなければならなかったか−、日本の自由民権運動の例を見ても思い半ばに遇ぎるものがある。敗戦が日本に民主主義をもたらしたことを思えば、日本人は真の参政権を得るために、大東亜戦争の惨禍という代価を支払ったといえなくもない。

 昭和初期に日本女子大学の学生だった私の亡母・志賀美子の手になる当時の論文は、婦人参政権を強く求める内容のものだった。参政権が女性に認められたのは、敗戦によってだった。
 低投票率の原因を政治不信に帰することは沙汰の限りで、有権者の棄権、別言すれば参政権の軽視にこそ非難の目が向けられてしかるべきだろう。
 政治不信を表明したいのなら、何はさておき白票をこそ投ずべきなのだ。棄権が政治不信の表明などにまったくならないと銘記すべきなのだ。それなのに投票所にすら足を運ばないで、何が政治不信だ。
 現在、投票率を上げるために有識者たちが腐心を重ね、ざまざまな試みがなされており、それはそれで評価すべきものだが、成否は一にかかって有権者の自覚だと思う。
 往時、米国留学中の私は、ケネディとニクソンの一騎打ちとなった大統領選挙に遭遇する幸運に恵まれた。大統領選挙への米国の人々の並々ならぬ関心の深さを知ったことだけでも貴重な体験だったが、それにもまして教えられたのは、米国国民の選挙に対する姿勢だった。選挙当日は投票締切時間まで酒類は一切売ることができない。「酒気を帯びて」という一言葉があるが、選挙には酒気なしで臨むべき厳粛なものという教えがそこにはあった。なるほど酒類を買い貯めておけば、選挙当日飲むことはできよう。外国から酒類を取り寄せて当日飲むことも可能だろう。しかし間題は片々たるそのような些事にかかずらうことではない。選挙自体に襟を正している米国人の姿勢そのものに、私は教えられたのだ。
これが米国なのだ、これが民主主義というものなのだ、と私は自らに強くいい聞かせたことを思い出す。

議会主義の墓穴を掘る

 ところで低投票率をそのままにして、一票の格差是正とは何事だろう。なるほど選挙区によって、一票に軽重が生じることは広く知られている。一票が、人口過密の所では軽く、過疎の所では重いということも、広く知られている。この事実を踏まえ、一票の扱いが不平等だとして違憲訴訟がなされた。提訴は容れられ、一票の格差是正のために定数が見直された。それはいかにも法治国家の実を上げ、民主主義が機能しているかのような印象を与えはしたが、その通りであったろうか。
 格差是正とは、定数を人口過密の選挙区では増やし、過疎の選挙区では滅らそうというものだ。民主主義には多数決の原理が働くから、代表者数の多い所は有利に、そうでないところは不利に作用することになる。したがって行き着くところ、過密には過密が、過疎には過疎が加重されることになる。
 人口の集中する所は、当然のことながら住みやすい。住みやすい所は、雇用の場にも恵まれている。人が去り、過疎を招く所は、いかに空気や水が清澄で、風光が明媚であろうと、雇用の機会の少ない所なのだ。だから人口過密のために代表者の増える地域は益々有利となり、過疎のために代表者の減る地域は愈々不利となる。その結果、国土の均衡ある発展も、職業選択の自由も望めなくなる。
 最高裁判所の下した一票の格差是正を促す判決は、このように極めて厄介な事態を招くものだった。
 いったい違憲訴訟のすべてを最高裁判所が消化できる機関とみなしてよいのだろうか。最高裁判所になじむ違憲訴訟とそうでないものがあることは、今までに判決を下せなかった違憲訴訟があることからも明らかだ。日本にもドイッの憲法裁判所やフランスの憲法院のように、違憲訴訟にたえられる機関を設ける必要がある。
 私個人は一票の格差是正を理不尽なものと考えているが、最高裁判所の判決の尊重は、法治国家として当然の成行といえよう。その結果、有権者約四十万人を単位として一選挙区とする小選挙区制が誕生するに至った。
 小選挙区制が極めて欠陥の多い選挙制度であることは、導入時の論議の中からもすでに明らかだったが、実施後、その正体はさらに明瞭になりつつあると思う。巷間言われた、二大政党による政権交代が容易になる、有権者の意思が反映されやすくなる−などとは遠くかけ離れたものであることだけは確かだ。そのような小選挙区制も、一票の格差是正という発想がなかったなら実現すべくもなかったろう。
 私見では、定数は人口過密の所で減らし、過疎の所で増やすべきなのだ。それが実現不可能であるならば、せめて中選挙区制時の定数に戻すべきだ。そのことは相対的に過疎地を手厚く遇することになる。
 格差是正も、低投票率の前には顔色なしだ。低投票率は帰するところ、有権者の無自覚による。それは議会主義、民主主義の墓穴を掘ることになる。有権者の政治家への不信が原因だと思われているうちはまだしも、政治家の有権者への不信が表面化したらどうなるのか。そこには、独裁政治の登場しかないのではないか。

 追記 本稿執筆後の九月二十八日、徳島県知事選挙があった。投票率は前回を二・九五ポイント上回る四二・九二%。現職が大差で再選を果たしたが、対抗馬は共産党推薦を含む二人の無所属候補で、茨城県の場合のような一騎打ちではなかった。

(1997・10・1)




(これは、「月刊ベルダ 11月号(1997年)」に掲載されたものです)




 
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