総花的予算配分を
今こそ重点式へ



 香港が中国に返還されてから、三カ月が過ぎた。六月末日から七月一日にかけて、マスコミ報道は香港返還一色だった。華やかなパレードが繰り広げられ、香港の夜空に満天の花火が咲きに咲いた。
 叶わぬ夢と思われていた九十九年の租借期間が終わり、いま香港が元の鞘に収まるという歴史的事実の中で、悲喜交々の情景がテレビに映し出された。
 そのことによつて人々がどのように見、どのように感じようが、物事の本質はしかし単純ではない。喜びに沸く香港返還であれ、不承不承の香港返還であれ、これからの世界に、とりわけこれからの日本に、何をもたらすかについて考えないわけにはいかないのだ。
 私は経済の専門家ではないので、香港の経済力やその影響力をどのように見計らったらよいのかわからないが、大掴みにいって、日本に次ぐアジアの経済大国台湾とはぼ向じなのではないかと思う。ならば、中国大陸の一部としての香港は、経済力の面で台湾と拮抗することが可能となる。その場合、いままでほとんど意に介されていなかった中国大陸の経済力の分だけ、中国は台湾の経済力を上回ることとなる。
 このような情勢を"世界経営"に常に意を用いている米国が見逃すはずはあるまい。さらに中国大陸の潜在力に着目するならば、香港返還以前よりも、より中国を重視するようになるだろうと考えても、あながち荒唐無稽とはいえないと思う。
 言い換えれば、日本の成田空港が上海や北京への一中継空港になる可能性が出てきたといえる。
 中国は依然として共産主義国家だし、米国が中国に対して持ち続けてきた警戒感ないし違和感が俄かに解消するとは思われないが、しかし米中関係といえども強固な信頼関係に移行しないとは限らない。同じ意味で、良好だからといって、日米関係に日本が手放しで安住してよいはずがない。日米関係を良いものにするためには、両国関係の緊密化推進のために常に心を砕き、それを積極的に具体化していかなければならない。
 日付を正確に憶えていないので、十年ほど前のこととしか言えないが、日本経済新聞に興味深い記事が出た。二十一世紀は「スペース・プレイン」の時代だというのだ。「スペース」は宇宙、「プレイン」は航空機を意味する英語だから、宇宙機器のような航空機ではないかと想像されるが、大平洋を越えて日米間を片道二時間で飛ぶという。それくらいの超スピードで飛ぶのだから、離着陸の際は大地にとてつもない圧力がかかるという。当然、飛行場は強固な地盤であることが要求される。日経によると、日本における「スペース・プレイン」用空港の最適地は、岩手県の遠野市から釜石市にかけての地域で、そこは地盤が岩盤なので理想的だというのだ。
 私はこの朗報を早速岩手県内の知事や知友に知らせた。ニュースはたちまちにして遠野、釜石方面にも拡がった。だがそこまでで、事態はそれ以上に進展してはいない。

ジブラルタル海底トンネル

 今日の日本の財政赤字は四百三十兆円とも五百二十兆円ともいわれる。この膨大な赤字からすれば歳出抑制は当然の成行だ。公共事業費、医療費、文教費のほか、福祉関係予算等まで切り込まれることが必至だ。歳出が細かくなれば、予算編成には思い切った発想の転換、すなわち総花式から重点式への転換が必要だ。総花式である限り、金の流れは広く浅くならざるをえない。このことは、事の緊要性をなおざりにして、悪平等を選択することだ。
 長い間、私はODA(政府開発援助)づくりに熱心に取り組み、JICA(国際協力事業団)を育てる会のメンバーだったが、その間どうしても通らなかった私の主張が、この重点式だった。毎年数多くの人や物におカネを渡す総花式の予算では、実績にもならなければ評価にもつながらない。日本としては広く浅く行き渡らせたつもりなのに、その実、肝心の困窮している人々の手には渡らず、権力者や特権階級のみを潤すだけの結果となり、多くの人々の根みを買うことになる。カネを提供してまでして恨みを買うとなれば、こんなにバカバカしいことはないではないか。何のためのODAか、だ。
 重点式を主張してきた私の年末の夢は、ジブラルタル海峡に海底トンネルを通すことだった。従来の海底トンネルは、「関門」「青函」に見られるように島から島へかけてか、ドーバー海峡を潜る島から大陸へのものだったが、ジブラルタルこそは大陸と大陸を結ぶものだ。旧国鉄で創出、磨き上げ方れた海底トンネル掘鑿の技術力はドーバーでも生かされたが、この技術力と日本人の血税が「ジブラルタル海底トンネル」を実現したとなれば、歴史に残ること、スエズ運河を開通させたド・レセップスの比どころではないと私は確信するのだ。アフリカの開発に大きく寄与、人の流れにも新しい潮流が生じるだろう。
 私は重点式を国際的な面のみに強調しているのではない。国内的にも、絞りに絞って、いまこそ大規模な事業をやるべきなのだ。その典型的な事業が「スペース・プレイン」開発と就航の具体化だ。
 これは日米両国の共同事業でなければ成就されるものではない。空港設置も一方的であっては何にもならない。「スペース・プレイン」についても、日米両国の技術力と製造能力ががっちり噛み合う共同開発で行くべきだ。

「スペース・プレイン」開発

 敗戦後、日本の航空機産業は壊滅、前途は絶望的だった。その後日本は「YS11」の製造に見られるように、先端的でない航空機なら生産する力を持つに至ったが、世界的レベルには未だしだった。航空技術界の重鎮だった故木村秀政博士などの助言によって、私が心がけ、志したのは、米国の航空機産業という大樹に寄り、そこで自力を養い、日本の産業を育てることだった。
 米国の航空機生産に日本が参入した当初、手を染めることなど許されなかった航空機の心臓部ないし頭脳部分を、いまや日本が分担してやれるようになっている。このことは日本の技術水準の高さを物語る実例だが、また一方、安全保障をも意味する。
 日本に核攻撃が加えられた場合、日米安保条約が締結されているというだけで、自国が核攻撃に晒されることを覚悟のうえで、米国が日本のために報復攻撃に立ち上がってくれると安易に考えてよいものか。
 大切なのは、米国が日本の側に立って必ず立ち上がってくれると、日本人もその他の国々の人も、確信する条件を整えておくことにほかならない。
 米国産業の"虎の子"は、航空機、宇宙機器だ。今日先端産業とよばれている電子機器産業でさえ、所詮は航空機、宇宙機器の裾野を形成する産業にすぎない。日本が攻撃を受けることは、米国の基幹産業が大打撃を蒙ることにほかならないという条件を整えておくことこそ、真の安全保障なのだ。
 「スペース・プレイン」共同開発は、このように日米間の紐帯を一層強め、切っても切れないより良い関係に昇華させよう。戦後半世紀を経て、高度経済成長も終わり、新時代に対応する国内体制の整備に意を用いつつある今日、内外両面から見ても一石二鳥の策と考えて、敢えて提案する次第だ。

(1997・9・7)




(これは、「月刊ベルダ 10月号(1997年)」に掲載されたものです)




 
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