「核全面禁止」は
諸刃の剣か



 五十三回目の原爆記念日がやって来た。八月六日が広島の、三日後の九日が長崎の記念日だ。今年はインド、続いてパキスタンが核実験を五月にやったためだろうか、広島、長崎両市とも記念式典へは力が入った。いずれの式典にも両国の駐日大使やジャーナリストなど、影響力の大きな人たちの出席を見た。こうした人たちが記念式典会場での雰囲気を肌で感じ、原爆資科館での深刻な事実に触れたことは有意義この上なかったと思う。
 広島の平岡敬市長と長崎の伊藤一長市長の「平和宣言」を読み上げる場面はテレビでも放映されたし、新聞はその全文を掲載した。両市長の言わんとするところは「核全面禁止」であり、マスコミはこれを世論として盛り上げ、国論として核保有国に追ろうとする意気込みが感じられた。
 しかし、このような試みは今までにも何度となく繰り返され、何度となく無為に終ってきたことだろう。そして、それはなぜなのかについて、人類構成員の一人として真剣に考えるべきなのではないか。事が成就しないのにはそれなりの原因があり、理由があるはすなのだ。

核抑止力のお蔭

 五十年以上も大戦争の起きなかったことは珍しい。私は昭和一桁生まれだが、私たち年配の者の感覚では、日露戦争といえば遠い遠い昔の、それこそ歴史上の物語にすぎなかった。明治三十七年から翌三十八年にかけて戦われた日露戦争と昭和一桁の間は三十年程度だ。私たちが大東亜戦争のことを話しだすと、何を言いだしたのかと若い人たちからうさん臭い顔をされても、無埋はないのだと、つくづく思う。
 大東亜戦争終結後、地球上のあちこちに散発的に局地戦争は展閉されたが、大戦争はなく、ともかく平和な半世紀だったといっでよいだろう。その平和は何によっでもたらされたのか。私は、率直にいって核抑止力のお蔭だと固く信しでいる。「こちらが使えばあちらが使う。あちらが使えばこちらが使う。使えばどちらも全滅だ。だからどちらも使えない」とするあの抑止力のお蔭だ。
「もし」を歴史は拒絶するが、頭の体操のつもりで核全面廃止の戦後世界を仮定するならば、第二次世界大戦を凌ぐ非核全面戦争が起こり得たのではないかと私は想像する。
 だから私は広島、長崎の原爆犠牲者は死を以て核の悲惨さを世界に教え、その結果、核による戦争を起こさぬよう末然に防いでくれている尊い人柱をのだという考えを、どうしても変えるわけにはいかない。核全面禁止が今日、国際社会に容れられて、核兵器が全面的に廃棄されたなら、人類は核戦争の恐怖から解き放たれて、幸せな国際社会が実現できるとでもいうのだろうか。
 もう五十年も前のことだから、記憶違いがあったらお許し願いたい。漢文の授業で学んだことだ。十八史略だったかもしれない。
 人類史上、酒というものを初めて造った者がいた。献上された酒を口にして天子は驚いた。あまりに旨い。天子に召し出された酒の製者は天子の賞賛を受け、褒美をたくさん授けられるものとのみ思い込んでいた。ところが彼の得たものは斬首刑だった。このような美味なものは人を堕落ざせる、製法が他出する前に葬れ、というのがその理由だった。
 すでに述べたように、私は核兵器なき世界は非核全面戦争が起きやすくなると考えているのだが、そのような戦争が起きた場合、交戦国は勝つためにどのような条約や協定があろうとも、核兵器の再獲得に直進するであろうことは、酒の創製者の首を刎ねるたところで、人類がひとたび手にした事物を永久放棄することのない事実と睨み合わせれば、事態は容易に理解できよう。
 交戦国のいずれが核兵器の再獲得に先を越すかが勝敗の分かれ目ということになる。そして先を越された側に第二の広島、長崎が再現するということになるのではないか。
 核兵器の再獲得がいかに迅速かつ円滑になされるべきかを重視するならば、それを可能にする段取りを組むことになるだろう。初歩的な発想でいえば、部品に分解した状態にしておいて、再び組み立てやすいようにしておく方法も浮かぶ。
 日本では弾と銃火器が別々であっても凶器と認定されているが、一方、国によっては弾の装填されていない銃火器を凶器としては認めないという。この理屈でいけば、核爆弾と運搬手段(ミサイル)とを切り離しておけば兵器とはいえないし、また爆発物を解体しておけば、部品が全部揃っている物であっても、核爆弾でないことになる。しかし、これが核廃絶とよべる状態だろうか。

なぜ戦争は絶えないのか

 核全面禁止は核抑止力の低下を招くことによって、非核全面戦争勃発の可能性を増大させる。だが、核全面禁止の実現はこのように期しがたく、よしんばそれらしく見えても、まやかしの可能性が強い。
 核全面禁止を主張する前に、私たちが考えなければならないことは、戦争がなぜ起き、それが未だに絶えないのはなぜかについてだ。
 戦争勃発の原因は、人間一人ひとりのりの欲望以外に何があるのか。人間の欲望の集大成、いいかえれば帰結ではないか。人間の欲望を抑えることにも努めず、野放しにしておいて、核全面禁止だけで戦争をなくし、平和な世界を築くことができるとする幻想に酔えるだろうか。
 核抑止力によってのみ、人類は大戦争の惨禍から免れ、平和の中にいることができるのだ。よくよく人間としての弱点を自覚すべきだ。
 核全面禁止を期するならば、私たち一人ひとりの欲望に自制の縄をかけ、網をかぶせるべきなのだ。人類の欲望と制御のなさについては一九四五年八月の原爆投下以前とも以降とも、全く変わっていない。悪くすると、物質重視の風潮の中だけに、悪い方に変わっていよう。
 何よりも欲望を一人ひとりの私たちが自制することだ。それが戦争をなくす。ひいては核廃絶をもたらす。
 核廃絶への道は、声高に叫ぶことでもなく、署名することでもない。己との闘いの中で、己に打ち克つこと、これなのだ。

(1998・8・10)




(これは、「月刊ベルダ 9月号(1998年)」に掲載されたものです)




 
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