他国で知る
日本への深い理解



 七月十五日の牛後三時頃(現地時間)、スペインの首都マドリードの郊外で、日本人八人が亡くなるという痛ましい事故が起きた。かれこれ四十年前、米国留学の後、スペイン留学を志してマドリードに行き、一年近くをそこで過ごした私は、マドリードと耳にしただけで我ながらそうと感じる程の反応を抑えられない。
 このニュースを聞いた時も、率直にいって平静ではいられなかった。
 被害者は栃木県真岡市職員とその家族だという。中には夫婦揃っての海外初旅行組もいて、何ということかと涙をそそられる。事故現場のイリェスカスという町はマドリードの南方約三十キロにあって、古都トレードヘの途中地点に当たる。この町を私は何回通ったことだったろう。最初は好奇心旺盛な留学生として、次いで来西の同胞を案内する物知り顔の留学生として、やがて日本大使館員に案内される国会議貴として。おそらく二十回を超えよう。それなのに唯の一回でこの事故に避う人がいるとは…。
 事故は、対向車線から飛び出して来たワゴン車が、日本人の観光客ら十三人を乗せたミニバスに衝突して大破炎上させたものだという。当方に落度がなくとも、居眠り運転や酔っ払い運転のため、この種の難に遭うことは日本でも珍しくないが、何が本当の原因なのだろうかということが気がかりだった。やがて新たに入って来た情報で、ぶつかって来たワゴン車の運転手が麻薬常習者だったことが明らかになった。私は文字通り亞然とした。

スペインの自由化

 私が留学した時代のスベインは、フランコ治下にあった。一九三六年、スペインは共和国側とフランコ将軍率いる反乱軍側に分かれて戦ったスペイン内乱が勃発した。国際的にも注目を浴び、スペイン国外からは共和国支援者が国際旅団を編成して陸続としてスペインに入った。フランスの後の文化相で作家のアンドレ・マルローや米国の後のノーベル賞作家アーネスト・ヘミングウェーなどの文化人も駆けつけた。一方、反乱軍側にはヒトラーやムッソリーニが加担、それぞれ正規軍を投入、後の連合国と枢軸国との代理戦争の観を呈した。約三年間の内戦の後、フランコ側が勝利し、枢軸側の唯一の生き残りと見なされたりもした。
 フランコ政権は独裁制を敷き、当時スペインヘ入国するためには持ち込む金の多寡など手続きがやかましかった。スペイン人の友人とレストランで政治に関する話をしかけた時、波は小声で「気をつけろ」と私を制した。その頃のスペインでは秘密警察が市民の間に紛れ込んでいるというのが公然の秘密だった。
 深更から朝まで飲み食いに打ち興じ、牛後の数時間を昼寝(シエスタ)に当てるスペイン人の伝統的な習性を別とすれば、人々の生活態度は慎ましやかで平穏だった。
 フランコ没後、王制が復活してフアン・カルロス国王が即位、スペインには自由化の波が押し寄せていた。実際にマドリードの土を踏み、四人、五人とスペイン娘たちが街頭を闊歩しながら臆面もなく煙草を喫い、人迷惑もあらばこそ大声を張り上げて話をしている姿には一驚を禁じ得なかった。フランコ治下を知る者にとって、これら娘たちの立居振舞は、まさしく臆面もなくと形容する以外ないものだった。往時のスペイン娘たちは楚々として、誰の目にも愛くいわるしくいとおしくさえあった。況やスペインは麻薬などに汚染されてはいなかった。
 唯の一回で難に遭ったのに、何十回も同じ道を往復しながら私が無事であった理由の一つは、そんなところにあったのかもしれない。
 だからといって自由化に異を唱えることは行き過ぎであろう。しかし、行き過ぎを咎めなければならないのは、自由化そのものではなくて自由の認識についてだ。人類全員が自由であり続けるためには、たがいに遠慮をしあうことが大事なのだ。だから真の自由とは野放図とは全く逆の自己規制と一体のものでなければならない。
 そこを考え違いをして、自由は勝手気儘、したい放題、やりたい放題と取り違えていはしないだろうか。これは何もスペインだけのことをいっているのではない。他国のことよりもまず日本自身のことに目を向けるべきだと思うのだ。
 文化国家建設の理想に燃え、道徳を重んじ、道義に篤い国家を目指した日本人は、一体どこに行ってしまったのだろう。他を顧みて私たち日本人は自分たちの国、日本を見つめなおすべきだ。

外国で尋ねられた日本のこと

昭和二十(一九四五)年八月十五日、日本は戦争に敗れた。その翌年のこと、私の在学していた旧制中学校で講演会が催された。講師は鈴木文史朗氏。朝日新聞の編集局長を務めた人だが、米国訪問から帰って来たばかりで、その土産話を話そうということだった。日本を破った米国に対して激しい憧れのような、好奇心のようなものがその頃の私の裡に渦巻いていた。
「ラジオ放送に引っ張り出されたのでこう言ってやった、原子爆弾を落とさなくても日本は手を上げたのに、なぜ米国はあんな残酷な物を日本に落としたんだ、とね」
 そんな切り出しだったと思う。
「日本を離れて一カ月もすると、日本料理が恋しくなって、これには参った。昼下がり、ニューヨークの街を歩いていると、たまたま目の前に大きな赤提灯がぶら下がっている。墨痕鮮やかに『都』と書いてある。ニューヨークの日本料理屋は『都』と『斎藤』が双壁なのだ。得たりかしこしとレストラン『都』に飛び込んで、早速生そばを注文した。といっても私はそば通でもなければ格別そばが好きだというわけでもない。ただ食いたかっただけだ。ところが注文してハタと当惑した。私のすわった卓の向かい合わせに、品のいい白人の老婦人が箸捌きも鮮やかに、生そばを食べているからだ。欧米では口で音を立てて食べることくらい嫌われる不作法はない。ところが日本では旨い物を食べることを舌鼓を打つというくらいだし、啜らないで食う生そばほど味気ないものはないではないか。当惑している私の前に生そばが来てしまった。郷に入らば郷に従えのたとえ通り、私も音を立てずに箸を運び始めた。と、彼女は急に箸を置いて、流暢な日本語でこう一言ったのだ。『そろそろ妥協して、音を立てて食べましょうよ』。度肝を抜かれたというのか、全く驚いた。なぜそんなに日本語がお上手なのですかと聞いた。すると、大東亜戦争が始まるまで東京にいたというんだ。それで生そばの味を覚え大好きになったものだから、今でも『都』に週に一度は来るという。そして神田の『藪』はどうなりましたかとか、麻布の『更科』は焼けてしまいましたか、などと尋ねられた。僕には答えられやしないさね。しかし日本人である以上答えられないのは、何か沽券にかかわるようで困ったし、立場がなかった」
 とまでいって鈴木氏は次のように結んだ。
「百間は一見に如かず、という。米国のことは米国に行けばすぐわかる。諸君の中には、将来米国に行ったり留学したりする者もいよう。行く前に米国のことなど勉強することはない。勉強するなら日本のことだ。君らの中で、『能』を説明できる人がどれだけいるか。シテはどういう役か、ワキとは何かなど説明できるか。聞かれて日本人のくせに答えられなければ、それこそ恥だ。外国のことは答えられなくても恥ではないのだ。日本人は日本のことを知ることだ。外国で日本人が学ぶことも、所詮は日本を深く広く学ぶことに外ならない、ということを、いずれ知ることになろう」
−これら一連の言葉が、私が外国生活を送る間、ふと蘇ってきた。日本人が他国を知ることはつまるところ日本を知ることに外ならない。




(これは、「月刊ベルダ 9月号(1997年)」に掲載されたものです)




 
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