胸を衝いた
感謝の言葉



 去る六月二十八日、盛岡で畠山信也氏の叙勲祝賀会があった。畠山氏は岩手県社交業環境衛生同業組合理事長で、自らもカラオケ・バーなどを経営している。鹿児島から駆けつけた全国組合連合会の肥田木克亮会長が祝辞の中で述べたように、この組合の組合員は数も多く、小なりといえども一国一城の主ゆえに、団体としてなかなかまとめにくく、それができるのはよほどの人物と目してよい。肥田木会長はこう言った。
「この叙勲のもつ意味はそこにあります。われわれの仲間からその栄誉に浴する者の現れたことが、大きな励みになります」
 いくつかの祝辞の後。二百五十人もの参会者を前の、畠山氏本人の謝辞は簡潔そのものだった。
「私が主役になったのは、今日で二度目です。一度目は私たちの結婚当日、二度目が本日です。私はいつも裏方でした。そのご褒美になったのかと思っていましたが、そうではありません。皆さんのお蔭でした。ありがとうございました。そして…」と言って、畠山氏は自身の左手に向きを変えた。そこには椅子が二つ並んであった。一つは今しがたまで自身が座っでいた椅子、もう一つは二年前に亡くなった夫人の遺影の置かれた椅子だった。その椅子に向かって、畠山氏は、
「家内のお蔭です。ありがとう」
 と言っで軽く頭を下げ、そでれで終わりだった。力んでもいなければ、情熱的な語り口でもない。いたって淡々たるものだった。そのことが、かえって私の胸を衝いた。
 そしで同時に、私に三十余年前の一光景を思い出させることになった。

日本に亡命した韓国人

 その頃、私は自由民主党の三木武夫政務調査会長の主宰する政策研究立案機関に勤めていた。中国問題と取り組んでいで、朝日新聞の論説主幹だった森恭三氏の知遇を得た。ある日、金三奎氏という韓国人が森氏の紹介状を持って現れた。堂々たる体躯の容貌魁偉な、しかし声の優しい人物だった。
 考えてみると、三木、森、金の三先人とも今や故人だが、その頃までの私は、大方の日本人がそうであるように、彼の国や彼の国の人たちに偏見を持っていた。それが何のいわれのないものであることを、金氏を深く識るにつれて、いやというほど知ることになった。説教されたり、教訓を受けたりしたのではない。そんなことをされたら、かえって反発したことだろう。つきき合う間に、私は金氏に敬愛の念を持つに至ったのだ。敬愛する人物の母国に対して、どうして蔑視や差別意識が働こう。
 金三奎氏が旧制東京高等学校から東京帝国大学に進み、独文科を昭和六年に卒業したことを知った。卒業論文のテーマはトーマス・マンとのことだった。文学界における二十世紀の巨人の一人とはいえ、当時の日本では末だ作品は翻訳されていなかったと思う。金氏が名家の出であることなど、それとなく知れた。
 日本女性と結婚して、若い頃は早稲田で古本屋を開いていたことも聞かされた。日本人の朝鮮人に対する偏見は甚だしく、朝鮮人と結婚した日本女性への、冷たい目や心ない扱いが容易に察せられた。
 戦後、韓国の一流紙『東亜日報』に拠って金氏は論陣を張った。論説主幹として、また編集局長として。華やかな立場にあった夫君とは裏腹に、敗戦国日本の出である夫人は、どのような境遇にあったのだろうと推察しないわけにはいかなかった。
 金氏はやがて李承晩政権と決定的な対立関係に陥り、日本に亡命、東京に民族問題研究所を設立、月刊誌『コリア評論』を発刊することになった。
 何度か訪ねたことのある『コリア評論』編集部は、発送部でもあり広告部でもあって、義理にもきれいとはいえない小さなその部屋の入口には、「コリア評論社」と共に「民族問題研究所」の看板が掲げられてあった。そこで働いているのは金氏の他、女牲が一人いるだけ、それにしては『コリア評論』の中身は濃かった。

「どうもありがとう」

 金三奎氏は毎号、巻頭言を執筆、三百回を超えたが、一貫して中立化による南北朝鮮の平和的統一の実現を訴え続けた。金氏の求めに応じて、私は三木武夫先生とお引き合わせしたが、朝鮮半島の中立化は国際環境がそれを許さなければ不可能というのが三木先生の見解で、私も同意見だった。しかし、脇目もふらぬ金氏の姿勢が共感を呼ぶのか、同胞からの協力は細々とながらも後を絶たなかった。
 調べてみると、昭和四十三(一九六八)年のことだが、新宿の中華科理店で金氏の還暦祝いが催された。旧制高校以来の親友だという清水幾太郎氏も駆けつけた。カメレオンのように千変万化する清水氏と、十年一日の如く変わらない金氏の取り合わせが、払にば奇異に映った。
 宴たけなわになる前だったろう、百人近い出席者が集まって記念撮影をしてもらった。その写真を今、手にしてみると、中央に金夫妻が椅子に腰掛け、その間にお孫さんがいる。
お孫さんのことはすっかり忘れていたが、撮影後、「皆さん、そのままで」と言いながら金氏が立ち上がり、一人前方に歩み出た時のことが鮮やかに思い出される。
 くるりと振り返るなり、「ひとこと申し上げます」と言って一礼、謝辞を述べ始めた。
「本日はご多用のところ、私ごとき者のためにお出ましくだされ、まことにありがとうございました」
 型通りの挨拶はそこまでだった。金氏は続けた。
「皆様の前で、結婚してこのかた一度も家内に言ったことのない言葉を、ただ今、家内に対して申すことをお許しください」
 何事か、と私は固唾を飲んだ。出席者全員も、おそらく同じ思いだったろう。
 金三奎氏は大柄な身体を二つに折りながら、
「どうもありがとう」
 と言った。それだけだった。そしてスタスタと自分の席に戻って行った。

(1998・7・1)




(これは、「月刊ベルダ 8月号(1998年)」に掲載されたものです)




 
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