語り尽くせない
原爆の恐ろしさ



 インドが二回、続いてパキスタンも二回、それぞれ核実験を強行した。大々的に報道されたことで、世界中のこの問題に対する関心と驚きの深さがわかる。非核保有国が非難声明を出したのはともかくとして、核保有五カ国の態度は様々だった。米国、中国などは単純明快に反発し、その他の核保有国には温度差があったが、印パ両国内では核実験の成功が歓呼の声で迎えられた。パキスタンはインドに対して、インドはパキスタンとその背後の中国に対して、それぞれ深い警戒感を抱いているのだ。
 世界中からの非難に対して、インドはNPT(核拡散防止条約)に加盟していないインド自身の立場を強調した。NPTとは核保有国を五カ国に限定、これ以上ふやざないとする条約だ。この条約に早々と日本は加盟したが、インドは核保有国の既得権にあぐらをかいた身勝手な条約だとして加盟しなかった。
 インドはしたがっで、国際的な取り決めにも約束にも反してはいないと主張、経済制裁などの国際的な村八分の扱いは不当だと抗議している。パキスタンも似たり寄ったりの立場だが、「インドの脅威」を繰り返し強調している。
 「核」のつく熟語は様々生まれたが、広島、長崎、に投下されたものの呼び名は当初「新型爆弾」だった。私は当時旧制中学の一年生だったからよく憶えているが、新聞もラジオも、「新型爆弾」の被害を防ぐには白い布を身にまとうべしという政府の指示を伝えた。その後間もなく、原子爆弾とよばれることになるこの爆弾の被害は、驚いたことに白い布をまとうだけで防げるというのだ。迷信信仰にも似た当時の日本政府の無知蒙昧ぶりに驚くのはよほどたってからのことで、私自身「新型爆弾」など大したものではないと思い込んでいたほどだ。純朴な一般国民にそう思い込ませるのが、政府の狙いでもあったのだろう。

大火傷を負った乙女

 その頃の父の勤務先は政府機関の一部だった大日本産業報国会(略称は産報)中央本部といい、それは神田の神保町にあった。現在の救世軍本部の建物だが、化粧直しをして、当昨の建物とは似ても似つかないものになっている。
 敗色濃厚の日々、私は自転車で牛込の中学校から神保町の産報に寄り、父と自転車を並べて本郷に帰宅するのが習わしだった。そのようなわけで、私は父の勤務先の人たちに可愛がられるようになった。その中に、いかにも優しい小父さんという感じの、たしか花森さんという人がいた。上背があって、父よりも若かったと思う。この人が広島に出張していてたまたまピカドンに遭ったのだ。
 花森さんから直接、地獄絵図の話を聞いたのだった。飛び出した眠玉が頬の上で右に左に揺れていた人の話。春物の縁という縁に火がついて逃げ惑っている人の話。大火傷した乙女が走り寄って来て、ぺタリと座り込むなり花森さんに「お願いです。私にオシッコをかけて」と懇願したという話。そんな体験談をつぶさに聞かされたのだった。
 私にまつわる「原爆物語」はこれにとどまらない。今ニューョーク在中で芸能評論家をもって一家をなしている友人の大平和登君から大学時代に聞かされたこんな話がある。
「『原爆の子』という本が岩渡書店から刊行されて、ベストセラーになったことがあった。その頃のこと、僕は銀座に出た。現在の近藤書店は建て替えられて以前の面影は全くないが、当時はショーウィンドウがあって、新刊図書やそれにまつわる物が陳列されていた。そのショーウィンドウの中を兄た途端、僕の脚はすくんでしまったのだ。昭和二十年八月六日、僕は広島市に住んでいた。その僕を毎朝誘いに来る同級生がいた。いいやつだった。その日の朝もいつもと同じ時刻、玄関から僕を呼ぶ声に向かって、今日は熱があるので学校を休む、と返事をした。なぜそういったか今でもわからない。体温を計ったわけでもない。学校を休むほど具合が悪かったわけでもない。何かしら気が進まなかっただけなのだ。僕の返事を聞いて心配したおふくろが、蚊帳の中に入って来て掛布団を直してくれたのを憶えている。それから僕は眠ってしまったのだが、どれくらいかして閃光が定ったと思った瞬間、恐ろしい大音響がして真暗になった。気がついた時、僕はからだ中でもがいて脱け出そうとしていた。闇が徐々に溶けるにつれて、僕のまわりが瓦の山であることがわかった。僕の上に屋根が落ちて来て、そこから僕は這いずり出そうとしていたのだ。その時、下の方から"和登、和登"と呼ぶ声がする。おふくろが梁の下で動けないでいるのだ。僕は手近の棒を引き抜いて挺にして押し上げ、おふくろを救い出した。そのおふくろはどこも怪我をしておらず、僕はまだ子供だ。おふくろが早連おぶってくれ、街を駆け抜けて郊外に連れて行かれたのだ」

拭えない罪悪感

 大平君が母堂の背中で見た阿鼻叫喚図には、花森さんの話と重なり合うものが多かった。
「僕が近藤書店のショーウィンドウで見たのは紛れもない、僕を誘いに来た同級生の肩掛けカバンその物だった。僕は息を飲んだ。僕らの学校は爆心地にあったため、同級生は皆死んだ。だから旧友に久々に会った懐かしさと、懐かしさを押しつぶすような罪悪感に脚がすくんだのだ。僕の心の中には、嘘をついて彼を死地に追いやり、自分だけがヌクヌクと生きているといった拭うことのできない罪悪感があって、それから一週間ほど飯がのどを通らなかった」
 今なお体にケロイドの残る大平君の話も含め、こんなにも原爆が語られているというのに、人間の業なのだろう、報復を恐れて平和を担保する相互核武装による「恐怖の均衡」によってしか、今日の私たちは平和を手にすることができない。だからといって現状のままの推移に任せておいていいのだろうか。インターネットなどを通じて安直に核兵器を製造する方法が世界中に拡散する可能性を否定できようか。そのような事態に備えて今こそ対処の途を真剣に考えておくべきではないかと思うのだが。

(1998・6・10)




(これは、「月刊ベルダ 7月号(1998年)」に掲載されたものです)




 
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