危機克服の基本的姿勢
日本と欧米の違い



 かつて海外での航空機事故があった時「搭乗者名簿に日本人の名前は幸い見当たりません」と報じたことが問題視されて、爾来消えた「幸い」が、形を変えて今なおウロチョロしているように見受けられる。
 去る四月二十二日にペルー日本大使公邸の人質が百二十七日ぶりに救出された時、人質七十二人中の日本人二十四人全員の救出報道が大々的だったため、その他の人質の救出や犠牲者については、あるかないかもわからない報道ぶりで、ほんの付け足しといってもよかった。私も当初、七十二人全員が救出されたかのような錯覚さえしていた。間もなく、たった一人とはいえ、ペルー人人質から犠牲者が出たことを知って胸の衝かれる思いだった。決死行とはいうものの、特殊部隊の隊員二名に犠牲者を出したことにも胸が痛んだ。
 事件が起きたのは、そもそも日本大使が天皇誕生日を祝うパーティに、ペルー在住の名士を招待したことに端を発している。建国記念日をはじめ、国家的祝祭日に在外公館が祝宴を催すことは各国ともしていることで、珍しいことでもなければ、非難されるべきことでもない。ただ招待した場所が事件の舞台となったことは厳たる事実である以上、事件に全くかかわりのない私ですら、未然に事件の防止ができなかったかを含めて、日本人としての責任を感じないわけにはいかない。換言すれば、日本人にではなくペルー人に三人もの犠牲者の出たことに、肩身の狭い思いがするのだ。日本人入質の救出に力点を置いた報道は、いかにも自国中心主義的で、国際場裡にあっては軽蔑の対象になりこそすれ、それ以外の評価は何も得られないだろう。
 事件終熄後のマスコミの論評は、八百人という大勢の人々が出席した祝宴であったのに、警備はこんなことでよかったのかとか、事前にペルー政府から要警戒の連絡がなかったのかとか、あってもこれを無視したのかとかさまざまで、まことにかまびすしい。しかし要は、利己主義ともとれる自国民本位の姿勢にメスを入れることが、何にもまして重要であると思われる。
 大事件や大事故の起きるたびに「危機管理」という、私にとっては不得要領の四文字が現れる。なぜ"危機克服"といわないのか私にはわからない。危機克服は当事者一人ひとりの冷静な対処にもよるが、一にかかって指導的立場の人の基本的な姿勢による。危機に対する基本的姿勢は、日本的なものと欧米的なものとの二つに分けられよう。

「生命は地球よりも重い」

 三木内閣下の一九七三年と福田内閣下の七七年とに一度ずつハイジャック事件が起きた。
 三木内閣下のは「ドバイ事件」とよばれるもので、パリ発東京行きの日航機がアムステルダム上空で日本人一人を含む五人のアラブゲリラに乗っ取られ、ドバイ、ダマスカスを経てリビヤに着陸、グリラ側は日航機を爆破したのち現地の軍隊に投降したものだ。
 福田内閣下のは「ダッカ事件」とよばれ、ドバイ事件と同しくパリ発東京行きの日航機がボンベイ上空で日本赤軍に乗っ取られた事件で、犯人側はバングラデシュのダッカ空港に強制着陸させた。
 このダッカ事件の場合、当時の福田内間は、日本国内に服役中の赤軍派メンバー六人の釈放と、身代金六百方ドルの要求に応じ、人質は無事解放された。もとより人質の人命尊重を第一義としての対応だった。
 一方、欧米の例を見ると、日本に比べてゲリラ側に対する姿勢は強硬だ。
 ダッカ事件と同し年、西ドイッ赤軍四人にハイジャックされソマリアのモガディシオ空港に着陸していたルフトハンザ機に、西ドイッ国境警備隊が強行突入を図り、犯人全員を射殺し人質全員を解放した。
 この一年前の七六年、パレスチナゲリラがエール・フランス機を乗っ取り、たてこもったウガンダのエンテベ空港にイスラエル軍が奇襲攻撃しグリラ全員を射殺して人質救出に成功した。
 このように、基本姿勢が平和的解決とか、人命尊重とかといったものではないことがわかる。
 福田内閣のハイジャック事件に際しての大義名分は二つあった。
「生命は全地球よりも重い」というのがその一つだ。全地球よりも重いものを何よりも優先して救うのは当然ではないか、という響きが言外にあった。ところが全く同じ文章が別のところですでに使われていたのだ。憲法第三十六条の公務員による残虐な刑罰を禁止するという条文を楯に、違憲訴訟が起こされ、これに対して下された最高裁判所の判決文の書き出しの部分がこの文章なのだ。しかも死刑は残虐な刑罰に当たらず、徒って合憲だという結論に導く判決文になっており、これこそ典型的な修辞的書き出しになっているのだが、まさしくその部分に当たる。
 この文言が、犯人の要求を全面的に飲んだ時に政府が発したものだということを銘記しておく必要がある。
 もう一つの大義名分は「超法規的措置」というものだ。国民主権の法治国家にあって、超法規とか、超法規的措置とかというものがあり得るのであろうか。立法府は主権者たる国民の代表によって形成されており、それ以外に立法の場はないはずだ。
 いずれにしても日本政府の姿勢には一貫牲が欠如していたといわざるをえない。
 それだけに、欧米の基本姿勢には大いに教えられる。いかなる事情があるにせよ、ゲリラを解き放てば、小壺から自由な天地に飛び出した細菌さながらに、散って行った先で悪事を働く。それは犯罪の拡散にほかならない。このような事態を看過しえない欧米流の危機克服対策は、きわめて妥当なものといわなければならない。

「明日の犠牲」への配慮

 ここに興味深いエピソードがある。第二次世界大戦下、英国本土がナチス・ドイツの空襲に曝されていた頃のこと、ある日、英国のチャーチル首相のもとに一通の報告書が届いた。ナチス・ドイツの暗号解読に成功、その結果、明日午後一時に英国某市に空襲がなされることが判明した、という内容の報告書だ。何らかの命令が当然チャーチル首相の口から発せられるものと、報告書の伝達者は期待したが、案に相違して「さがってよい」という一言だけだった。伝達者は恐る恐る反問した。
「明日の空襲に備えなくてよろしいのでしょうか」
「軍は常に臨戦態勢だ」
「いえ、市民に退避命令を出さなくてよろしいのでしょうか」
 チャーチル首相はその時、声を荒らげた。
「わが方が暗号解読に成功したことを、敵に教えてやろうというのか。解読されたとわかれば、敵は暗号を一新するだろう。そうなれば、それを解くまでのあいだ、味方はどれほどの犠牲を強いられるか計りしれない。目の前の犠牲と明日の犠牲との比較を、君はなぜしようとしないのか」
 生命は尊貴だ。尊貴であるがゆえの生命に対する考え方が、日本と欧米とでは明らかに連うようだ。しかしその差異を差異として放置するのではなく、いずれの考え方に与すべきかを、この機会にこそじっくりと考えるべきではなかろうか。




(これは、「月刊ベルダ 6月号(1997年)」に掲載されたものです)




 
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