事なかれ主義が蔓延
わが子を叱らない親



 私の地元の岩手県一関市に、高校、短大、それに短大付属の幼稚園をもつ麻生学園という私立の教育機関がある。麻生学園の前身は修紅学院といったが、危機に陥った経営を、数年前に九十六歳で亡くなった福岡県出身の麻生繁樹という教育者が引き継ぎ、見事に立ち直らせた。
 とはいえ、いかに健全経営であろうとも、出生率の低下から現下の学校経営が苦しい事態に追い込まれつつあることは否めない。折しも麻生学園から卒業式への招待状が届いた。顔を見せることによって、少しでも元気づけになるならと考えた。日程の都合上、短大付属の幼稚園にだけ出席することにした。純真無垢な幼な子たちに会えることも楽しみだった。
 実際、可愛い子どもたちの顔を見ているだけで、当日の私は幸福感に満たされた。そしてそしてゆくりなくも自分自身の幼稚園の時のことが思い浮かんだ。牧師だった園長先生は田中稔という、チョビ髭を生やした人だった。保母さんは三人いて、園長先生の夫人である田中先生、八木先生、一番若い大塚先生だった。同期の仲良しは三好君と大久保君、いつも反抗して私にやっつけられていた中村君。一期上も大半は私の子分だったが、とりわけ忘れられないのが疫痢で死んだトシちやん。もう六十年も昔のことなのに、記憶は驚くほど鮮明だ。
 さきごろ物故したソニー株式会社の創業者・井深大氏とは二度面談したことがあった。二度が二度とも電気や通信事業に関する話には触れず、話題は専ら幼児教育に関してで、その都度、一時間半余に及んだ。氏は幼児教育問題に極めて造請が深く、その重要牲を倦むことなく説き来たり、説き去るのだった。それはとりもなおさず幼児の能力の深さと広大さを語り、人間の可能性の豊かさに対する指摘に外ならなかった。

子の卒業式は親の卒業式

 短大付属幼稚園の卒業式は園長先生の式辞に続いて、卒業証書の授与へと移って行った。名前を呼ばれた卒園児は精一杯の大声で「ハイ」と答えて登壇する。園長先生の前に進み出て片腕を真横に上げ、それを水平に前に動かして卒業証書の縁をつかみ、もう一方の腕を同じようにして卒業証書のもう一方の縁をつかむ。そして一礼して一歩後退、降壇するという具合だ。この間、出席者の後方座席では、その都度若い男性か女性が起立するので、それが卒業証書を授与されている子の父親か母親だとすぐに察しがついた。
 卒業証書の授与が終わると、つぎは来賓祝辞だった。祝辞を求められた私はその日の主役である卒園児たちに、何よりもまず「おめでとう」を言った。そしてわかりやすい言葉で小学校進学後はよく学びよく遊ぶようにといい、ついで後方のお父さんとお母さんに話しかけた。
「お子さんの御卒業、まことにおめでとうございます。心の底からお祝いを申し上げます。卒業証書授与の時、わが子と共に起立しておられるのを拝見して、ああ、これは子どもの卒業式であると同時に、親の卒業式でもあるのだなと思った次第であります。それだけに私の慶祝の念には一入のものがあります」
と言って私は語をついだ。
「このいたいけな子どもたちは、文句なしにいい子どもたちです。見ていて私はそう確信しました。いいことをきっとやるに違いありません。その時は全身全霊で褒めてやって下さい。決して褒めすぎるということはありません。心の底から、心をこめて褒めてやって下さい。私は九歳の時、三十四歳の母と死に別れました。それ以来、私は母に褒められたことがなく、恥を忍んで言えば、この年になっても母の褒め言葉に飢えているのであります。今もし私が母からの褒め言葉をもらえるならば、間違いなくどんなことでも必ずやるでありましょう。これは決して大袈裟なことを言っているのでもなければ、いわゆる文学的な表現をしているのでもありません。掛値なしの話なのであります。ですからお父さん、お母さん、よいことをやった時のお子さんのためには、惜しみなく褒めてやって項きたいのであります」

子の前で「いい子」ぶる親

 卒園児たちが小声でお喋りを始めていた。私は先を急いだ。
「ここでもう一つお願いがあります。悪さをやった時のお子さんは、叱って頂きたいということであります。悪さの度合にもよりますが、厳しく叱って下さい。いい加減な、叱っているのかいないのかわからないような叱り方ではなく、場合によっては容赦ない叱り方が大切だと思うのであります。闇は深ければ深いほど灯は明るさを益すのであります。このことをどうか心に置いて、あなたのよい子をよりよい子に育てて頂きたいのであります。本日はまことにおめでとうごぎいました」

 世の中を見ていると、これが本当の"平和ボケ"というものなのだろうか、平和主義が高じて極端な事なかれ主義に堕しているように見受けられる。思っていること、考えていることをそのまま言えば、相手に厭がられたり嫌われたりする。それを恐れて言うべきことを口にしない。それで人間関係は円滑を欠かないですむかもしれないが、言うべき時に言うべきことを言わないと、その歪みが必ずどこかに出てくる。
 現に相手の前で遠慮して呑み込んでいる言葉を、蔭に回ると撒き散らしている例は少なくない。さらに救い難いことには、そのような処世術が習い性となってわが子に対してでさえ叱責もせず、苦言を控えるようでは、どうしてよい子が育とう。
 世上騒がれている少年少女たちの平然と犯す凶悪犯罪は、このような環境の中から生まれるのだと私は憂いている。親がわが子の前でなぜ「いい子」を演じなければならないのだろう。
 親は親としての自覚に立とう。自らの一挙手一投足がわが子の未来を左右するだけでなく、日本の将来をも決めてしまうことに思いをいたそう。親子には共同体の面がある。子の卒業式は親の卒業式でもあるのだ。

(1998・4・6)




(これは、「月刊ベルダ 5月号(1998年)」に掲載されたものです)




 
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