日本の進路を過たせる
新選挙制度に異議あり



 去る三月のこと、新進党へ離党届を出した萩野浩基代議士に、新進党側は離党を認めず議員辞職を追った。萩野代議士は昨年十月、戦後初めて導入された小選挙区比例代表並立制による総選挙で、比例区の東北ブロックから初当選した人だ。比例区は政党名投票なのだから議員辞職は当然と新進党は息まく。一方、萩野代議士は憲法上、国会議員は国民を代表するもので、属する政党がオレンジ共済事件などで公党としての責任を果たさない以上、自らの意思で行動するとは国会議員の責務だと反論する。
 どちらの見解ももっともだが、この新選挙制度の下では、立候補する側も投票する側も、先のような事態まで想定しなければならないとはやっかいなことだ。
 つまり、政党名によって投票し当選した代議士が日ならずしてその政党を離党することがありうることを有権者は覚悟しなければならない、ということだ。新選挙制度はこんなにもややこしいものなのだ。
 比例区の候補者名簿順位決定のプロセスが疑惑の目で見られているのがオレンジ共済事件の友部達夫参議院議員の例だ。衆参両院ともに言えようが、比例区の候補者名簿順位は特定の人たちの談合によって決められるから、このようなことが起こる。
 政治改革を成就させるには小選挙区比例代表制しかないとマスコミは煽ったし、国民もまたそうだと思い込んだ。その結果、恐るべき選挙制度が成立したのだ。その良し悪しによって、政治も国の前途も良くも悪くもなる。まさかと思われるかもしれないが、新制度は総てを悪い方向に持って行くと私は考えている。そうでなければ、今更この問題に禿筆をふるわない。

政治改革とは名ばかり

 中選挙区制を廃して小選挙区比例代表並立制に変えたいとする主張は、自民党一党の永久政権化が権力の腐敗を生んだのだから、政権交代を可能にする二大政党の存立を可能とする選挙制度を導入すべきだというものだった。ところが小選挙区制の導入を見るまでもなく、自民党は下野、細川、羽田政権が相次いで登場したことは記憶に新しい。
 小選挙区制推進論者はこんなことも言った。中選挙区制では同一政党から複数の、多い場合は四人もが立候補する。同一政党の候補者である以上、政策や公約に差異のあろうはずがない。そこで得票のため、候補者は国会見学の旅行団など選挙民向けサービスに鎬を削るというような、政治とは全く別のことに奔命しなければならない。ところが小選挙区は定員一名だからそのようなことは起こらず、政治改革の名に最もふさわしいものだ、と。
 小選挙区制は政治改革フィーバーのもとで推進されたといってもよい。推進論者は改革派で善玉、反対ないし慎重論者は守旧派で悪玉、という図式までもが生まれた。
 しかし昨年十月の総選挙直後の新選挙制度に非を鳴らす声を聞けば、どこまでこの制度が理解されていたのか怪しくなってくる。なるほど小選挙区での供託金没収組が比例区で当選するとか、上位者は落選なのに所属政党が別であるがゆえに下位者が当選するとか、おかしく思えるようなケースもある。しかし小選挙区で落選し、比例区で当選する「敗者復活」に非を鳴らすようでは何もわかっていないことを自己宣伝しているようなものだ。
 小選挙区制は選挙区域が小さくなっただけ、地域密着型の政治にならざるをえない。候補者は人物本位的な選ばれ方をする。一方、同一政党から一人しか候補者が出ない以上、政党の政策や公約によって有権者の選択を促す側面もある。それゆえに、小選挙区比例代表並立制にあっては、有権者一人の持ち票を二票制とし、一票は人物本位の小選挙区に、もう一票は政党中心の比例区に用いてもらおうというものだ。政党中心の比例代表制を深く考えれば、総選挙直後にあがった不満の声が、さして妥当なものではないことが明白だ。
 私は根っからの小選挙区比例代表並立制の反対論者だ。つまり、小選挙区にも比例代表制にも反対なのだ。その立場の者からえば、小選挙区比例代表並立制を歓呼の声で迎えたのに、今更小選挙区は賛成だが比例代表並立制には反対するなどというのはおかしい。選挙制度には比例区を全く加味しない制度もあれば、小選挙区も中選挙区もない、すべてを比例区にしてしまう制度もあるのだが、日本の選挙制度は結局小選挙区比例代表並立制となったのだった。
 よいことずくめで宣伝されたこの制度も、反対論者のかねてからの指摘のとおり、政策論争が選挙戦の争点になるどころか、市町村議会議員顔負けの利益誘導型選挙になりさがってしまったことは周知のとおりだ。
 政策論争に関連していえば、小選挙区制度下で当選した者は、自己主張を差し控えるようになる。一票差でも当選は当選なのだから、微妙な議題となると白説を素直に出さなくなる。軽率に思ったままのことを主張すると落選につながりかねない。したがって、言論統制下に身を置いているのと同じような現象になるのだ。
 俗耳に入りやすかったのは、小選挙区制になると金がかからなくなるということだった。中選挙区の半分の広さになれば経費は今までの半分、三分の一になれば今までの三分の一と、計算どおりにいかないのが世の常なのに、まことにわかりやすい解説をした推進論者がいた。選挙戦に金のかかることこそ諸悪の根源だから、政治改革の第一歩は小選挙区制導入しかない、というのだった。

金権選挙を生む土壌

 この妄説を明快に斬って捨てたのが、島村宣伸代議士だった。
「私の選挙区は東京十区(当時)、人口も多ければ、当然有権者も多い。だから当選に必要な有権者を買収するなど、不可能です。理想選挙にならざるをえません。ところが現行の中選挙区が小選挙区になって、分割されたり、分断されたりして有権者の数が少なくなると、買収による当選も可能になります。私は買収などやる気はさらさらありませんが、相手候補がやり出したらどうしましょう」
 国政、都道府県政、市町村政各レベルの選挙戦を実見してみると、小さい区域になればなるほど派手な金権選挙が行われていることがわかる。
 衆議院議員の選挙区が、東京都の一区長や区議会議員選のそれよりも小さいという矛盾はすでに指摘されているが、昨年の総選挙後に明らかになった新事実がある。
 小選挙区での当選者は、当たり前のことだが一人きりだ。その当選者が与党議員であるなら問題はないが、予算に手の届かない野党議員である場合、地元からの陳情を受けてもどうにもならない。埋屈の上では、国民生活のためには代表者が与野党いずれであろうと、予算は公平に配分されるべきものだが、限りある予算であり、まして緊縮途上にある以上、与党議員間の分取り合戦で精一杯のところに、他にまわす余裕などあるだろうか。与党議員の不在の選挙区は、ワリを食うことになる。中選挙区制でなら、ほとんど必ず与党議員が当選したのでこういうことはなかった。
 日本の進路を過たないためにも、選挙制度の長短をもう一度冷静に検討すべきではないだろうか




(これは、「月刊ベルダ 5月号(1997年)」に掲載されたものです)




 
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