ファシズムの
来襲を恐れる



 去る二月二十五日夜のニュースに始まった脳死臓器移植騒ぎは、のちにマスコミ自体からも反省の弁が出たほどに、過熱報道だった。テレビの画面にさえテロップが流れ、何事が起きたかと私は目を凝らしたはどだった。
 二十五歳の子息が脳死をしたことから、脳死問題に深くかかわり、その経験を『犠牲』という著書にまとめた柳田邦男氏が『週刊文春』の三月十一日号にこう書いている。
『三月一日のテレビ報道・新聞報道は、法制定後初の脳死臓器移植の成功に対する「賞賛」と「感動」の形容句であふれていた。大学や病院の極限を超えた「総力戦」のみごとさと移植医らの技術水準の高さを称賛する言葉や移植を受ける患者の喜びと感謝の気持を伝える言葉が見出しやリードの中で躍っていた。
 そういう状況の中で、「ちょっと待ってほしい」と発言するのは、勇気がいる。重い心臓病や肝臓病で苦しんでいる患者たちの努力に文句をつけるのかといわれるからだ』
 脳死臓器移植に積極的な人は正義の味方、消極的ないし反対の人は悪、という方程式が簡単に作られるのが日本の社会だ。
 私自身は本誌平成九年四月号に持説を述べたように、はっきりした反対論者だし、それだからこそ身にしみてよく判るのだが、どうして三文小説さながらに世の中を善悪二つに分けて、しかも恬として恥じない手合がこうも多いのかと恐れ入る。これは、ファシズム襲来の前触れではないだろうか。
 人間一人の中には、善もあれば悪もあるのだ。善をどれだけ発揮させ、どれだけ悪を閉じ込めるかが、人間教育であり、修養というものではないたろうか。

小選挙区制導入の軽佻浮薄

 ファシズムの前触れではないかと怯えさせる実例は幾つもある。
 近くは積もりに積もった汚職の末の佐川急便事件を契機に登場した「政治改革」だ。私の「政治改革」は政治家としてあるまじき行為、たとえば汚職に関与した者には、二度と政界に出られないおそろしく厳しい罰を設け、未然にこれを防止すべきだというものだった。それよりも、政治家本人の自覚にまつべきだとする意見があった。それはその通りなのだが、政治家に対して「自覚にまつ」といったからといって今さら何の足しになるのだろうか。
 政治家が望まない事態を避けようとする時の常套手段として、誰からも反対されないか、大方の賛同を得られるような代案に擦り代えるかするがある。「政治改革」も罰則強化ではなく、選挙制度変更へとなった。選挙には金がかかり過ぎるから中選挙区制は諸悪の根源だということにして、小選挙区にすべきだということになった。そもそも選挙自体に金がかかるのか、かからないのか、従って政治改革の実現のためには選挙制度を変更すれば事足りるのかどうかも論証しようとせずに、だ。
 一般有権者の多くはもとより、どうかすると国会議員のなかにも、中選挙区制は手垢にまみれ、疲労しきったどうしようもない制度だが、小選挙区制は日本にとって前人未踏の処女峰のようなもので、これこそ正しい政治を可能とする原点だという幻想を持つ者が現れた。、その小選挙区制は知るや知らずや、明治、大正時代に一回ずつ導入され、その次の回には中選挙区制に戻されたといういわくつきの代物なのだ。聖書ではないが、まことに「天が下、新しきもの一つとしてなし」だ。
 それなのに、小選挙区制導入時の騒ぎを象徴する出来事は、推進者ないし賛同者には改革派、慎重派ないし反対派には守旧派とレッテルを貼り、守旧派は社会的な制裁を蒙らんばかりだった。私は一九五○年代のアメリカにおける悪名高い赤狩りの「マッカーシー旋風」を思い出していた。小選挙区制導入が決まった時は、脳死臓器移植手術が行われた今回と同じ軽佻浮薄なマスコミ流の正義感が、臆面もなく大手を振ってまかり通っていた。
 東京都知事選挙が追るにつれて、衆議院議員を辞めて衆議院議員の補欠選挙の出馬準備をするとか、もはや存在しない政党の候補者がその政党の権利によって繰上げ当選をするとか、小選挙区制のメッキがボロボロに剥げ、中選挙区制に戻すべきだとするもっともな論議がにわかに浮上してきた。悪いものは悪い。当然の成り行きなのだ。

処世で失う言論の自由

 今日では日本軍閥の典型的な傀儡国家と評価の定まっている満州国の建国に、当時の日本人は多くの知識人も含めて、挙げて歓迎したのだ。日本人はどうしてこうも自分の頭で物を考えようとしないのだろう。
 人間が生きて行く上において大切なことの一つは、正邪の別を弁えること、そして己の信ずるところを堂々と主張することではないだろうか。しかし世の中を見渡すと、世の風潮に逆らうことになるからといって口をつぐむ。出世の妨げになるからといって、いうべきことをいわない。そういう人が多過ぎる。
 戦前の日本人がなぜ言論の自由を奪われていったのか、私には長いあいだ判らなかった。今日の私たちと比べ、当時の日本人が劣っていたとは到底考えられない。むしろ優れているところが幾つもあったと私は考えている。それなのにどうして、というのが長いあいだの疑問だった。それが判ったのだ。
 一言でいえば自分の処世のため、あるいは出世のため、白分から口をふさいでしまい、その虚に乗じた他からの圧力で言論は封殺されていったと見るべきなのだ。だから結論からいえば、言論の自由の喪失は、自ら好んで招き入れたものに外ならない、と私は断定するのだ。いうべきことをいっている人間に、バッカじやなかろうかといわんばかりの視線が集中するのを日本人なら誰でも見たことがあるだろう。
 ここにも私はファシズム襲来の危惧を持つのだ。人間にとって保身や出世も大切であることはよく判るが、それ以上に大切なことをそのため失う愚に、早く思いをいたしてはしいと切実に願わずにはいられない。

(1999・3・8)




(これは、「月刊ベルダ 4月号(1999年)」に掲載されたものです)




 
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