考えさせられた
家族の在り方



 感動の十六日間が終わった。金五、銀一、銅四の都合十箇、日本にとって史上最多のメダル数で飾った二十世紀最後の冬期長野オリンピック。
 あどけなさの残る乙女が、何と金メダルを獲得する。無名だった青年がスターダムにのし上がる。リレハンメルの二の舞かと危ぶまれたチームが逆転優勝する。それらドラマの蔭には、亡き父への誓いが、母の暖かい支えが、妻の静かな激励が、家族の熱い絆がそれぞれにあったことが解き明かされていく。ライバルの存在が自分にメダルをもたらしてくれたのだと打ち明ける爽やかな感想が伝えられる。人生は詩だ−とつくづく思う。
 日本選手の健闘に日本中が沸き、その成果に一喜一憂する有様をつぶさに見て、ボーダレスの時代とか国際化の波とかいわれても、私たちがナショナリズムの心情から容易に解き放たれていないことを認識しないわけにはいかない。
 こうした雰囲気からすれば、当然といえば当然かもしれないが、日本のテレビのアナウンサーの報道ぶりは些か常軌を逸した傾きがあった。
「やったやった、日本がやったァ」と絶叫する。この種の絶叫が二度や三度ではない。日本人が日本贔屓であることに何の不思議もないが、しかしもう少しバランスをとって、健闘した外国勢に対して大きな声援を送ってもよかったのではないか。

若い者を導くのが親の務め

 十六日間は短いようで長い。終ってみれば短かったとしかいいようがないが、この間、何とたくさんの出来事があったことだろう。沖縄の名護市長選で海上基地賛成派の推す岸本建男氏が当選した。大蔵省の役人に接待攻勢を繰り返してきた一流銀行幹部がまたしても逮捕され、この事件に関与した銀行の数が増えた。クリントン大統領が大量破壊兵器の査察を要求、イラクが応じない場合には武力発動も辞せずとする強硬態度に出た。衆議院に逮捕許諾請求が提出される直前、新井将敬代議士が劇的な自殺をとげた。
 その他まだあるが、オリンピックの開催中だっただけに、世の関心を惹いたのはバルセロナ、アトランタ五輪で銀、銅メダルを獲得したマラソン選手、有森裕子さんの別居騒動だった。金銭トラブルの渦中にあるとされる金髪碧眼の夫は、同性愛者であることまで告白して波紋を呼んだ。
 ゴールインする者同士が、よく連名で結婚披露宴の案内状を寄越す。愛する者同士、夢にまで見た披露宴を希望通りのものにしたいということなのだろう。それが許されるほど若い人に経済力がついてきたということでもあろう。
 しかし私たちは、結婚式と披露宴は子にしてやる親の最後の務めであると教えられてきた。有森選手の騒動でつくづく考えさせられることは、当事者を心から愛する冷静な第三者からの、指導と助言が必要だということだ。その第三者とは当然、当事者の両親だ。
 私の親戚に男爵家の出の者がいた。物静かで鄭重な喋り方をする彼が、大学生だった私に思いがけないことをいった。「お見合いをする時は、必ずマス(自慰)をしてから出掛けなさいよ」。これは私をからかったのではなく、親切心で言ってくれていたのだと今になってよくわかる。諺にも「空腹にまずい物なし」というではないか。
 若い男女は共に空腹状態なのだ。そのような二人を善導するのが長上者、特に親の務めなのではないか。それなのに昨今の長上者はもちろん、親までもが「当人の望むように」とか「本人次第」とか言って、したり顔だ。至極正しく、当然のことを言っているように自分では思っているのかもしれないが、私に言わせれば、これは完全な責任放棄だ。なぜ後進の脚元を自信をもって照らしてやろうとしないのか。

教育の基本は家庭にある

 冬期長野オリンピックの期間中には、中学生たちの凶暴事件も報じられた。女子中学生二人が六十九歳の老人を殴る蹴るの暴行のはてに殺害したり、男子中学生が女教師をナイフで刺殺したり、尋常ではない事件が続発したのだ。その都度テレビに出て反省の弁を述べるのは、判で押したように加害者の在籍する学校の校長だった。なぜ校長だけを引っ張り出して、親には問いかけないのだろう。
 不祥事の起こる根本要因は家庭教育にあると私は固く信している。教育の基本は家庭にあるのだ。
 最近、教師志望の学生を対象にして行った宇都宮大学のアンケート調査でも、不祥事の原因は家庭だと七○%の者が答えていた。
 子は親の後ろ姿を見て育つという。心の教育、すなわち情操教育は両親と兄弟姉妹の家庭生活の中で築き上げられて行くのだ。一方、学校教育の主目的は技術教育であるといってよい。文字を覚え、その用法に習熟することや、数を覚え、数埋に明るくすることを私は技術教育と呼ぶのだ。これが学校教育の基本だ。
 もとより何事によらず絵のように割り切れるものなどないのだから、家庭教育と学校教育は互いに入り混じっている部分があるのはいうまでもない。ともあれ、家庭教育をなおざりにして、親はわが子の教育を学校に委ねすぎる。ここにも責任放棄の姿がある。学校も教師も、万能ではないのだ。
 人々の目が長野オリンピックに集中したのは、無意識の中にも、おぞましい事件を忘れて、心を銀世界や銀盤に吸い込まれていたかったのではないか。
 感動のフィナーレの中で、この大会を成功させた一人ひとりに私は心の中で拍手を送り続けていた。とりわけ長野招致に全力を傾けた旧知の加賀美秀夫・元国連大使に、惜しみない拍手を送り続けた。
「私には私のやり方がある。生まれつきプラス思考。特別なメンタル強化はない」
 精神的重圧をはね返したスキー・ジャンプ、原田雅彦選手の吐いた珠玉の言葉が心に残る。

(1998・2・28)




(これは、「月刊ベルダ 4月号(1998年)」に掲載されたものです)




 
ご意見、ご感想はこちらまで


戻る