生命の尊厳だけは
金力と権力から守ろう



 なにごとによらず人間が新しいことを始めると、必ずマイナスを伴う。よかれかしと始めたものでも、マイナスに転化することが少なくない。コロンブスのアメリカ大陸発見でさえ、先住民にとっては悲劇の幕開けにほかならなかったし、ヨーロッパ大陸の人々にとっては、未知の恐ろしい伝染病の伝播につながる出来事だった。
 脳死・臓器移植についても、同じことがいえる。危殆に瀕した人を救うため、心臓移植を手がけようとする医師の心情も判らないではないが、新しいことを始めるとなると、踵を接してマイナスのやって来る例を、ここでも見出すことができる。
 今年二月二日日曜日の夜九時からNHKテレビで放映された「柳田邦男の生と死を見つめて」と題する番組に、私は引き込まれた。番組は、低体温療法という耳慣れない治療法を紹介した。マスコミでの初めての紹介ではなかったろうか。細胞は熱に弱く、体温が上昇するにつれ弱まり、死滅していくものなのだという。脳に急激な障害が起きると、患部は炎症を起こし、熱を帯びる。それを冷やすため、水の入ったマットで、体全体を包む。循環する血液は、やがて四肢から頭へと行き、炎症箇所を冷やす。それで脳細胞が保全され、体に備わった自然治癒力と医療によって、脳死状態から脱し、徐々に正常に復してゆく。交通事故のため、鼻孔から脳味噌の出ていた重症患者が、やがて元気になって退院して行く。一方、米国における交通事故による重症患者は、低体温療法という治療法を施されぬまま「脳死」と認定され、臓器まで摘出されてしまう。明暗を、そっくりそのまま分け合った二人の患者の映像にショックを受けたのは、私だけではなかったと思う。
「脳死」と何であるかが、厳しく問われているのだ。

揺らぐ「脳死」の判定

 今まで人類社会に広く受け入れられてきた「死」の定義は、呼吸の停止、心拍の停止、瞳孔の拡散、の三徴候だった。この定義を改めようとするのが「脳死」という考え方にほかならない。なぜ改めようとするのか。それが、臓器移植を合法化する唯一の道だからだ。
 広く知られているように、肉体の部分的な交換によって、患者に健康を取り戻させる治療法は以前からもあった。交換部分は、皮膚、歯、腎臓、角膜などだ。いずれの場合も提供者の生命を犠牲にしないでも移植は可能だ。しかし、心臓の場合だけは違う。提供者の生命を犠牲とするからだ。そこで、反人道的だと謗られないための道として「脳死」という考え方が導入されたのだった。
 医学や薬学の進歩によって、意識を失った人間に長時間、時には長年月、呼吸をしつづけさせることが可能になった。この間、心臓は動きつづけ、滋養分は体内に流し込まれて老廃物は排泄される。要するに、意識がないだけで正常な人とほとんど変わるところはないのだが、しかしこれが人間として生きている状態とよべるのだろうかという疑念が生じるようになった。痛いも痒いもないこの状態は「死」と同じなのではないか。「死」であるならば、心臓摘出も他の生体への移植も許されるばかりでなく、人道にかなった行為ではないか。
 粗っぽくいえば、これが脳死・臓器移植推進論者の考え方だといってよいだろう。それゆえに「脳死」という新しい考え方は、彼らによって導入されたものだといってよい。自分たちのやりたいことを正当化するために導入した考え方だといったら、叱られるだろうか。
 この種の正当化には、どうしても無理がつきまとう。「脳死」を「死」の仲間に加えると、既成の法律の六百余カ所を改正しなければならないという。不可能事とはいえないまでも、容易なことではない。
 そればかりか、医療や科学技術の日進月歩の中で、蘇生限界点が移動し、それにつれて「脳死」の判定も不可能になりつつある。咋日までなら「脳死」と判定されたものが、今日はそうはいかなくなっているのだ。そして明日も同じことが起きる。一昨年だったか、NHKテレビのインタビューに同様趣旨のことを私は答えておいた。

プライオリティの歪み

 人間社会に広く受け入れられている先述した三徴候の定義による「死」とは異なり、「脳死」は医師のみが認定できるもので、患者の家族といえども認定に加わるわけにはいかない。医師も人の子、この場合、独善独断を避けられるだろうか。臓器移植への強烈な願望が、「脳死」か否か微妙な状態にある患者までも「脳死」と認定してしまうおそれがないとする保証はどこにあろう。
 担当医が患者の家族に対して「脳死」であると強硬に納得させ、臓器を摘出して移植手術を行った例もある。医師、看護婦総ぐるみで「脳死」を認めさせ、臓器移植に同意させた例もある。このような雰囲気の中では家族といえども抗しがたいらしい。しかしこれは「同意」とよぶべきものなのだろうか。
 前国会で廃案になり、今国会で審議が始まった「脳死・臓器移植法」が成立したとして、どうしても納得のいかない点がある。臓器移植を希望する患者のプライオリティ(優先順位)を何によっで決めるのか、という点だ。臓器移植を必要とする緊急性の判断は、医学の知見によってすればさしてむつかしいことではないと思われる。問題は、その優先順位どおりに事が運べるか否かだ。
 有名校への入学の便宜を図ってやると称して、親の弱味につけ込んだ私塾の経営者が、最近マスコミを賑わせたが、一流企業への就職を巡っでも、この種の人間が暗躍する。なにもかにも金によって解決しようとする事態はもはや常識と化している。
 入学や就職ですらこうなのだ。当人や近親者の生命のかかっている臓器移植の希望者の優先順位となったら、思い半ばに過ぎるものがある。要するに、臓器移植をされる側の優先順位は客観性を重んじる医学上の知見によってではなしに、金の多寡と権力者の意向によって決まることになるのだ。換言すれば、人の生命が金力と権力で左右される社会が現出するのだ。「脳死・臓器移植法」は、そういう社会をつくり出す法律に他ならない。どうしてこのような法律の成立に与することができよう。
 発展途上国の中には、明日への糧を得んがために臓器(たとえば腎臓)を売る者がおり、これを安く買い高値で売り捌く者がいるという。その中に日本人もいると聞いて、怒りと羞ずかしさに震えが止まらない。この風潮が昂じれば、日本人は脳死者を食い漁る民族になり下がるのではないか。
 臓器移植の手術が成功しさえすれば万々歳だと思い込んでいるのは浅慮で、もらい手にとっては手術後の方が移植臓器への拒絶反応が生ずるため要注意だ。手術前より格段に悪い状態になり、その責め苦には目もあてられないという例が大変多いのだ。責め苦どころか落命の例も少なくない。
 ともあれ、さなきだに金力と権力のものいう世の中だが、せめて生命の尊厳だけは金力と権力から隔離しておきたいと、私は切実に願っている。




(これは、「月刊ベルダ 4月号(1997年)」に掲載されたものです)




 
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