三度の死線を越えた
自由の闘士、金大中氏



 昨年師走の十八日に、韓国で大統領選挙があった。二位の李会昌候補に得票率一・六%の差で、金大中氏が次期大統領に選ばれた。これが四度目の挑戦だった。
 師走と間いただけでも慌ただしい気分になるのに、金融不安などの未曾有の経済困難と大統領選挙が絡んだのだ。韓国全体がどんなに慌ただしかっただろうと思いやられるが、朴正煕大統領時代の二十年程前の師走、私にも慌ただしい思い出が韓国訪問に絡んであるのだ。
 自民党内に「AA研」の略称で親しまれているアジア・アフリカ問題研究会という組織があるのを御存知だろう。この組織の中に朝鮮半島問題小委員会が誕生して以来、一貫して委員長をつとめて来たのが私だ。朝鮮半島という呼び名が示すように、この小委員会の担当範囲は南北朝鮮、すなわち大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の双方なのだ。お陰で今までに何回となく両国から招待されたが、現実に訪問したのは韓国だけで、北朝鮮はいまだに処女地だ。

韓国政府から招待状が届く

 私が今思い出しているのはほかでもない、第一回韓国訪問のときのことだ。
 AA研の当時の会長は創立者でもある宇都宮徳馬代議士だった。宇都宮会長の積極的な活動は、AA研の名を轟かせた。
 その頃、宇都宮会長の計画立案したのが韓国・北朝鮮問題をテーマとする、いわゆる「ワシントン会議」だった。AA研所属の日本の国会議員や研究者と、米国の極東問題に関心の深い国会議員や学者を、夏場ワシントンDCに集めて徹底的に討議しようという試みだった。そのための最新の資料を入手するために宇都宮会長は北朝鮮に、また私を含むAA研所属の三代議士が韓国に、それぞれ派遣されることになった。事実それから間もなく宇都宮会長は北朝鮮に入国したのだが、私たち三人は韓国政府によって入国を拒否され、それは日本の新聞のトップ記事になった。
「自分たちの国の問題を取り扱う国際会議に、自分たちを蚊帳の外に置くとは何事か」というのが入国拒否の埋由だった。その結果「ワシントン会議」は日の目を見ずじまいになった。
 その年の師走になって、俄に韓国政府から私たち三代議士に招待状が届いた。ワシントン会議も幻と終わったことだし、日韓両国間の不愉快事をそのままにして越年させたくないというのが、韓国政府の本音だったろう。
 慌ただしい師走のさなか、このように急な招待に応じるのもどうかという意見があったが、日韓親善の大義のもと、三人とも招待に応じようということになった。
 当時のソウルは今日と比べると随分見劣りするものだった。日韓の絆を象徴するロッテホテルはまだなく、これといった高層建築物は殆どなかった。私たちの宿所はひときわ偉容を誇る当時唯一の最高級といってよい朝鮮ホテルだった。朝鮮ホテルは今日も同じ所にあって一流であることに変わりはないが、もはやひときわ偉容を誇るというわけではない。
 このホテルで韓国滞在最後の夜を過ごした私たち三人は、意を決して後宮駐韓大使に自動車を手配してもらい、ホテル正面口から金大中氏宅に向かったのだった。
 金大中氏訪問は訪韓の決定をみたときからの懸案だった。宇都官会長から金大中氏への親書も託されていた。
 韓国到着以来、私たちの世話役をしてくれていたのが、のちに下院議長なども務めた張基栄氏という人だった。世話役といえば聞こえがよいが、この大柄な人物は実際のところ監視役だった。到着早々、金大中氏との会見を望んだのだが、言を左右にして応じてくれない。
「金大中氏になるべく早く会いたい」
「日本の新聞を読みましたか。金大中は自宅軟禁を解かれて自由の身になったと書いてあったでしょう」
「ええ、読みました」
「自由なんだから、会う必要なんかないでしょう」
この埋屈にびっくりざせられた記憶が、今でもありありと蘇ってくる。

「命がけで自由をかち得る」

 金大中氏は一九七三年八月、KCIA(韓国中央情報部)の手によって東京のホテル・グランドパレスから韓国に拉致され、日本の主権を侵害したものとして外交問題にまで発展した。一応の政治決着がついたとはいえ、目韓両国政府にとっては消しようのない恥部であり、できることなら触れられたくない事件だった。
 後宮大使の差し向けてくれた自動車に私たち三人が乗り込むと、「私も乗ります」といって、張基栄氏は至極当然のような顔をして乗り込んで来た。
 自宅での金大中氏と私が会ったのは、東京についで二度目、少し面やつれがあった。本人もさることながら、どんな心労があったろうと眼鏡をかけた夫人の姿を私は目で追った。
「ようこそおいで下さいました」
 金大中氏は丁寧に挨拶をした。
 金大中氏の脇のソファには私たち三人が、正面には張基栄氏が席を占めた。体制側のどのような人物であるか知悉しているはずなのに、全大中氏は張基栄氏など全く眼中にないといった態度だった。金大中氏は口を開いた。
「韓国は自由主義国家群に属しています。それなのに、この国に自由はありません。まことに悲しむべきことです」
 金大中氏の日本語は流暢なだけでなく、すごく情熱的だった。
「最近、日本の友人から坂本龍馬を扱った本を送られました。読んでいろいろなことを考えさせられました。私も政治家の端くれ、できることなら明治維新前夜の激動を生き抜いて、首相として天下に君臨した伊藤博文の運命にあやかりたいとおもいます。しかし、私たちの国に自由をもたらすことが出来るなら、明治維新の朝ぼらけを見ないで仆れた坂本龍馬の運命を、私は喜んで甘受します。見て下さい。自由なき大日本帝国の占領した中国大陸や植民地だったわが国の北半分は、日本の撤兵後すべて赤化されたではありませんか。欧州も同じです。自由なきナチス・ドイツ敗北後の東欧がいい例です。自由のないところに、共産主義がはびこるのです。全体主義の温床になるのです。韓国の為政者は赤化の脅威に晒すまいとして自由を奪い、かえってこの国の赤化や全体主義化のお手伝いをすることになっているのです。私は命がけで自由をかち得るつもりです」
 あれから幾星霜−金大中氏とはその後何度となく会ったが、一昨年訪日の氏とも二人だけで会う機会に恵まれた。四度目の大統領選挙に出馬の肚を固めていることも知った。
 全大中氏は私の承知している限りでも、三回死地を脱している。朝鮮動乱の際、北鮮軍に捕らえられて処刑場に連行される途中の逃亡がその一、日本から韓国に拉致される途中、
米国の介入によって殺害を免れたのがその二、光州事件の首謀者として、死刑判決を受けたのに赦されたのがその三だ。
「お目にかかるたびに、私はあなたに逞しい生命力を感じます。あなたは何度となく死線を越えた人です。それは、あなたが求められている証拠です。今度の大統領選挙に、あなたはきっと勝つでしょう」
 と私は断言した。私のこの言葉に金大中氏は否定も肯定もせず「ありがとうございます」と静かに答えた。そのとき私は、金大中氏の当選を改めて確信したのだった。

(1998・1・8)




(これは、「月刊ベルダ 2月号(1998年)」に掲載されたものです)




 
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