「青の洞門」に
学んだこと



 神奈川県の藤沢市と同名の町が、岩手県の最南端にある。人口一万八百四干八人のこの町は、同名の地方自治体であるところから藤沢市と親しくなって、その関係が今でも続いている。頻繁な少年少女たちの交流など、頬笑ましい行事が多い。注意深い新聞の読者なら、藤沢町が創意に富んだ町起こし、町作りをしており、たとえば縄文祭と銘打つ野焼き祭を毎年行い、常連に今は亡き岡本太郎、池田満寿夫といった人たちがいたことなども知っているだろう。
 最近コケラ落としをした町民文化会館の舞台の緞帳の意匠は、岡本太郎晩年の傑作といってよい。
 去る十一月二十日、この町を挙げての国営開拓建設工事事業完工の記念式典と祝賀会が催された。十七年の歳月と三百九十三億円余の国費を投じての、一地方にしては大きな規模の事業だった。この地方は温暖な気候に恵まれているとはいえ、地形が波状丘陵台地なために耕地は分散し、経営面債も零細、年間降雨量も少ないという悪条件の中で、この地域に適した農業確立を目指して、経営規模の拡大を主眼とする生産基盤の整備に取組んだのだった。
 その手始めが昭和五十三年(一九七八)、国営農地開発事業基本計画樹立地区に採択されて同五十五年(八○)まで国の直轄調査が進められ、翌年にはダム二基を含む全体設計が完了、同五十七年(八二)には待望の国営事業の着工となったのだった。
 昭和五十七年から算えて十七年、同五十三年からなら二十一年、当初から国会議員としてこの事業にかかわった者にとってはまさに感無量、記念式典では目頭が熱くなった。
 二十年間―。この間、同じ郡内の町からも、国営灌漑事業の採択を求めて陳情があり、私もこれに応えて調査費をつけることに成功したのだった。調査費がつけば、ほぼ採択と同じことなのだ。しかし、この事業は地元の強力なダム建設反対のため、事業返上というかつてない不本意な結末を迎えた―そんなことが走馬燈のように頭の中を横切った。

回心の動機

 町の産物や、それを町民が心を込めて調埋した数々の物で色どりを添える祝賀会の席上、指名された私は口を開いた。
「私は先刻来、大分県の、青の洞門のことを思い浮かべております。皆さんは青の洞門について御存じでしょうか」と私は祝辞を切出した。
 主殺しの大罪を犯し、その後も窃盗殺人を繰返した男が、翻然と悟るところがあって仏門に帰依、了海と名乗って托鉢の間、豊前の国(現在の大分県)に至って山国川沿いの難所で、毎年何人も人が落命することを知る。諸人済度の悲願への仏の導きと喜び、事故をなくすため、山国川治いの岩山に隧道貫通を志す。
 岩は硬く、ノミも槌も歯が立たない。その有様を見て、人々は嘲笑する。それでも屈せず、撓まず続行するが、嘲笑はやまない。岩山は、しかし徐々にながら穿たれて行く。嘲笑は下火になり、やがて遂に協力申し入れがある。
 そんなある日、旧主の忘れがたみである息子が現われ、仇討ちに及ぼうとするが、取りなしにより、工事完成を待ってということになって息子は工事に加わる。着工以来二十年たったある夜、了海の槌の一振りのもと、大きく前面に穴があき、洞の中に山国川の渓流の音が飛び込んで来る。このとき潔く首を差出す老僧に、息子はもはや殺意を抱くことが出来ない。二人は相擁して泣く。
 こんないい話が、私の子供時代には少年少女向けの本に出ていたのだ。今でも読もうと思えば、菊池寛の短編小説に『思讐の彼方に』と題して出ている。
「国営藤沢開拓建設工事事業を行うに当たって、青の洞門の時のような人殺しもなければ、悔悟の念もありませんでした。しかし青の洞門と同じ二十年という期間、関係者各位の御苦労には筆舌につくしがたいものがあったと思います。深甚なる敬意と祝意を表します」
 といって私は祝辞を結んだ。
 このあと改めて『恩讐の彼方に』を読んで私は泣いてしまったが、それでも了海の回心の動機がいつ何によるのか掴めなかった。自律的な回心でない限り、青の洞門を完成させられるはずがない。他から強制されたり求められたりしての回心によって、あれだけの大業がなし遂げられるはずがない。

日本への「謝罪要求」とは

 このことから考えさせられるのは、大東亜戦争終結に至る間の日本の所業に対する謝罪要求だ。私自身、二十五年も前に踏んだ中国大陸の大地で、日本がなぜこの国に攻め込んで、あんなに多くの惨禍をもたらしたのだろうかと、しばし茫然としてしまった思い出がある。
 列強に伍して国際社会に生きて行くためには、自らも列強と同じ帝国主義的な歩みを進めなければならなかったことや、惨禍を中国にもたらしたのは日本一国だけではなかったこと等々、頭ではわかっても、実感としてはとんでもないことを仕出かしてしまったという悔悟の念にとらわれたのだった。
 ところが日本の旧敵国や植民地だった国からの謝罪要求が度重なるにつれ、一体これは何事かという気持ちになって来る。それは改心するな、反省しないでよい、としか聞こえない響きを帯びで来る。
 中国の江沢民主席の訪日は、その意味でさまざまな波紋を投げた。共同宣言の署名を見送ったのは、日本側からの明文化した謝罪がなかったからだという。
 それが事実なら、昭和四十七年(一九七二)の国交正常化の際の共同宣言に、日本側の謝罪が明記されていることを指摘しておきたい。謝罪とは裏腹の態度をとる日本人のいることがいけないのだとする意見もあるが、だから謝罪要求に従えというのだろうか。従えば従うほど、逆効果なのではないだろうか。
 改めていうまでもない話だが、謝罪とは要求するものでもなければ、要求に応じてするものでもない。回心が何によって起こるかをこの際、深く省察すべきだ。

(1998・12・8)




(これは、「月刊ベルダ 1月号(1999年)」に掲載されたものです)




 
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