あるハンガリー人と
「日本への恋文」



 「ワグナー・ナンドール」という名をご存知だろうか。母国ハンガリーではもちろん、ハンガリー動乱後に亡命した先のスウェーデンでも、多少は知られた彫刻家だった。
 日本ではあまり知られていない割には、成田国際空港や栃木県立美術館など、それなりの所にナンドール作の彫刻が置いてある。作家本人が世俗的なこと、売名的なことをいたく嫌い、芸術家らしい一刻さで身を持した人だったことを特筆しておこう。一人で放っておいたなら、果たして生きて行けるのだろうかと危ぶまれるくらい、真直ぐな人だった。真面目の上に生がつく人でもあった。まさしく真摯に生きた人だった。日本での生活では、明日の食事に事欠いたこともあったという。
 同しワグナーでも「オットー・ワグナー」となると、日本でもその筋の人には知られているオーストリアの建築家だ。オットーはナンドールの大叔父に当たるが、オーストリアで名をなしたため、「オットー・ワグナー」という呼び名が一般的だ。この大叔父を、ナンドールは好きではなかった。純粋無垢な彫刻家にとって、大叔父は大の俗物としか見えなかったらしい。

日本を愛したワグナーさん

 そのワグナー・ナンドールが、去る十一月十五日、七十五歳を期に、栃木県の真岡日赤病院で生涯を閉じた。日本の国土の約四分の一、人口一千二十万人の母国ハンガリー共和国を遠く離れて、彫刻家として活躍したこの人の訃を報じるテレビも新聞も、日本にはなかった。
 ワグナー・ナンドールと書けばはっきりするように、ワグナーは姓、ナンドールは名だ。このことからもわかるように、紛れもなくハンガリーと日本の姓名の順序は同一なのだ。ハンガリー語はマジャール語といい、日本語と同じウラル・アルタイ語族に属する。もっとも、日本語だけは属さないと主張する言語学者もいるが、朝鮮・韓国語、モンゴル語、トルコ語、エストニア語、フィンランド語などと共にマジャール語がウラル・アルタイ語族に属することに異を唱える人はいない。これらの言語は語順や文法に共通点があるうえ、姓名の順序に至るまで、米国や西欧の場合とはまったく異なるのだ。
 生前呼び慣れていた「さん」づけを使わせて項くが、ワグナーさんの外見はいわゆる外国人で、むかし日本人が南蛮人とか毛唐とか言い習わしていた容姿そのままに、毛むくじゃらで頭髪が縮れ、がっちりした体躯の人だった。しかし外見とは打って変わって、物静かで温厚そのものの人柄だった。日本が好きで好きで大好きで、夫人ももちろん日本人、作品の対象も日本的なものにしぼられていた。たとえは私が贈られたのは、達磨大師の立像だった。壁に面して座禅を組むこと十年、そのため四肢を失ったと伝えられる達磨大師が立っているのも面白いが、達磨大師だといわれるまで、その風貌はイエス・キリストとのみ私が思い込んでいたほどに、妙に東洋人風ではなかった。
 ワグナーさんは宮沢喜一元首相のことが大好きだった。日本を託しても安心だと信じ、そう言い統けた。このようなワグナーさんの思いは私を介して伝えてあるので、宮沢元首相も知っておられる。ワグナーさんは日本を愛し、愛すればこそ現状を憂い、前途を案じ抜くこと日本人以上だった。

『文春』に載った一文

 私の大学在学中のこと、月刊『文藝春秋』に「日本への恋文」と題する一ハンガリー青年の文章が載った。偶然これを読んで、感動のあまり涙したことをありありと思い出す。
 その一文は、ハンガリー動乱から逃れてスウェーデン、米国に渡り、大学をおえて憧れの日本にやっと来たというような書き出しで始まっていたと思う。日本が憧れの国になったのは、近所に住む農民コパチ・ノギの話を聞いてからだったという。「コパチ」は爺さんという意味、「ノギ」は日露戦争の英雄、乃木希典陸軍大将からとったものだ。目露戦争後、ロシアに敵愾心を持つ国々では、日露戦争のもう一人の英雄、東郷平八郎元師からとった「トーゴー」が「ノギ」と並んで生まれて来た子供たちに好んでつけられたという。
 コパチ・ノギは口癖のように言っていた。
「東方にはわれわれの兄なる国、日本がある。日本は小なりといえども、大国ロシアを打ち破った素晴らしい国だ。この国を、この国の人々を、信し給え。必ず報われるだろう」
 ある日コパチ・ノギは一通の手紙を差出してこう言った。
「今日まで日本に行ける日の来ることを願っで生きてきたが、私は齢をとりすぎた。しかし君は春秋に富む。君になら、目木に行ける日が必ず来るだろう。その時この手紙を持って行って、兄なる国の人に渡してほしいのだ。お願いします」

「尊敬する東方の兄なる国」

 手紙の冒頭も「尊敬する東方の兄なる国、日本の皆様」だった。ところが、ハンガリー動乱に揺れる祖国を脱出するドサクサの中で、それまで大切にしていたこの手紙を紛失してしまった。繰り返し読んでいたので、一言半句まで正確にとはいえないが、それを書き綴り、コパチ・ノギの遺言にこたえたいと思う−と書いて「日本への恋文」が紹介されていた。
 そてれは、美しい文章だった。ベアトリーチェに村するダンテのように、生涯一筋の恋を貫いた例はないわけではない。しかし、他国をこれはどまでに慕い、恋し、憧れ抜いた例を私は知らない。「日本への恋文」を貪るように読み、読み進むうちに感動し、そして涙した。純枠一途な、まことに美しい文章だった。再読三読してもなお、この読後感に変わりはなかった。それなのに、残念ながら今思い出して再現するほどまでには記憶に刻み込まれてはいないのだ。記憶に鮮やかなのは、読み進む間に背筋を伸ばし、襟を正していたことだった。これほどまでに日本を崇め、想ってくれている異邦人がこの世にいたことに対する驚きだった。
 同時に、日本は、日本人は、果たしてコパチ・ノギの想いにこたえられる国であり、国民であろうかという内心込み上げてくる忸怩たる思いを、どうしても打ち消すことができなかった。
 ワグナーざんの話に戻ろう。ワグナーさんは亡命先のスウェーデンで、ハンガリーから一緒だった妻子と故あって別れ、その後、米国留学のあと絵の勉強にスウェーデンに来た日本女性とめぐり会い、結婚した。同じような境遇の者同士だっただけに、結びつきは深く密で、ワグナーさんはそれまでのすべてをなげうち、妻の祖国日本に来てゼロからのスタートを切った。日本人になりきるため姓名も「和久奈南都留」と改め、日本に帰化した。それまでの作品や著作権の一切を、ワグナーさんは思い切りよく別れた家族に与えた。
 ワグナーざんの生家はオーストリア・ハンガリー帝国の名家だった。祖父に当たる人は侍従武官長で、まことに偉丈夫だったという。それにひきくらべて、祖父の仕えた最後の皇帝は、小柄で華奢で見映えのしない人だった。皇帝の馬車のあとから、美髯をたくわえ、威風堂々と祖父が行くと、沿道の婦人たちの視線は皇帝を素通りして、馬上ゆたかな武官長に集中するのだった。
 悪さをした孫をたしなめ、叱る時の祖父の言葉はこうだったという。
「そんなことをすると、日本人になれないぞ、ナンドール」
「日本への恋文」と全く同じ何かが、そこに流れていると思うのは私だけだろうか。

(1997・12・7)



(これは、「月刊ベルダ 1月号(1998年)」に掲載されたものです)




 
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