脳死臓器移植の真実



 「マリー・アントワネット」「マゼラン」「メアリー・ステュアート」などの名作によって伝記作家として一家をなし、珠玉の詩集や小説などで内外に巾広い愛読者を獲得したオーストリアの作家、シュテファン・ツヴァイクに「将棋の話」という傑作がある。脳裡に将棋盤を思い浮かべ、牢屋で独り将棋に耽る因人が主人公だ。一人で交互に敵になり味方になりして指す。いずれの側に立っても最善手を考え出して、指す。最善手の応酬の帰結は、引分けか無勝負になる筈なのに、精神分裂を起こし、発狂に至るというものだ。
 この小説を読んだ頃の私は、近隣に敵なしの碁天狗だったため、よく独り碁をやっていたので引さ摺り込まれ、われかかれか見境のつかない中で、この小説を読みおえたのだった。
 私の体験からすると、最善手を見出すこと自体困難な上、連続して最善手を打つなど至難のわざ、時として白側に、時として黒側にとヒイキ心が動くと、それがかすかではあっても、動いた側に不思議と勝ちが行くのだった。
 去る二月二十五日に始まった脳死臓器移植騒ぎは、のらにマスコミ自体が反省の弁を述べた通り、びどい過熱報道だったし、患者や家族のプライバシーはどうなっているのかと案じられた。脳死になるかもしれないと危ぶまれている人が、脳死にならないでほしいと念じる私の気持は切実だった。この患者と同じく、恩師の長女が最近クモ膜下出血で倒れ、人院したのだった。私の祈りが天に通じたかのように、彼女の容態は回復に転じ、本復も遠くはないようだと聞いている。そのことと二重写しになって、今度の患者は脳死直前まで行ったとしても、U夕―ンに転じてもらえるのではないかと願っていたのだ。ところが、雰囲気がどうもおかしい。口にこそ出さないだけで、脳死になることを願っているとしか思えない空気なのだ。マスコミは脳死の発表を、今や遅しと待ち設けている有様だ。人間社会で誰かの死を望むということがあってはならないのに、それが現実に現われたのだ。脳死臓器移植の一連の手術後に経過を検証して気づくことは、法的な脳死判定に入る相当以前から、脳死臓器移植を前捉として、病院側が動いていたように思われる点だ。患者が入院早々ドナーカードの持主であり、自己の臓器提供の同意者であることがマスコミによって周知され、世の注日を集めることになったが、これこそ病院側が脳死を期待し、事態の速やかな到来を望んでいたことを示している。
 医師が自分の頂かっている患者が死んだ時は、家族ほどではないにしても、やはり悲しみか虚脱感か、ある極の感慨なしとはしないのではないだろうが。当然、主治医が聴診器を持つ手にメスを持ちかえて、血しぶきの中から臓器を取り出すことはもちろん、主治医と同僚の同じ病院内の医師がメスで同じことをするなど、私には想像もつかない。それはツヴァィクの「将棋の話」の主人公の破局につながった一人二役を想起させる。破局にならないとすれば、のっけから患者の脳死を防ぐための最善など、つくしていなかったからに外ならない。
 臓器提供者(ドナー)よりも臓器移植希望者(レシピエント)の方が圧倒的に多い傾向は今後とも変わるまい。放置すれば奪い合いになっても不思議はないぐらいだ。しかし医学的な知見によって、レシピエントの臓器移植の優先順位を決定することはむつかしいことではない。問題は、医学的な知見に基づく優先順位通りに事が運ばれるか、という点だ。
 入学、入社にまつわる「裏口工作」は、今まで何度となく詰題になって来た。それは、正常な順位を不正常にする工作だった。人学入社でさえ人間はこのような営みをする。もし人命がかかわっている場合ならどういうことになるだろう。骨肉のため万金を積むどころか、全財産を傾けてなお厭うことのない権力者、財産家が必ず現われる。その場合、医学的な知見に基づく優先順位に一指も触れることなく、その誘惑に打ち勝つ自信のある人がいたら知りたい。
 不慮の事態に遭遇した場合、欣んでドナーになろうと決めている人々の人道主義的な心情に、私は率直に敬意を表する。しかし、その人道主義的な心情が、所詮は権力者や財産家のための応援団的役割にすぎないことに、思いをいたしてほしいと思う。脳死臓器移植法の成立によって、生命が権力と金力によって左右される社会をつくってしまったのだ。私は「脳死臓器移植法案を疑問に思う議員の会」の会長として反対に終始したのもそれゆえにだったが、私が議席を離れたあとに法案が成立したのは慚愧の至りだった。
 特に生命にかかわることは、何によらず眼光紙背に徹する思いで、深慮熟考の要ありだと思う。



(これは、「神道時事問題研究 平成11年(1999年)4月1日」に掲載されたものです)




 
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