最 近 思 う こ と






 ◆ 新しい時代の聖地を


 公式参拝を明言した小泉首相の、靖国問題をめぐる行動如何が注目されていることとは別に、私は深い感慨の中で、八月十五日をまた迎える。昭和二十年のその日が戦後日本の原点であると共に、戦後世界の原点でもあるからだ。その思いの中で、私は日本武道館で毎年この日に行われる全国戦没者追悼式に出席することを欠かしたことがなかった。
 祭壇中央に全国戦没者之霊と墨痕鮮やかに大書された大きな白木が直立し、天皇皇后両陛下をはじめ、参列者全員がこれに礼拝する。今は亡き昭和天皇が「さきの大戦に斃れた者を憶う時、今なお胸の痛むのを覚える」と述べられたくだりをあらためて思い出す。しかし毎年出席しているうちに、私はこの式典に些か違和感を覚えるようになっていった。
 今、日本には交戦国がない。それなのに、なぜ日本人戦没者だけの追悼式なのだろう。戦没者は交戦国双方にいるのだ。それなのに、なぜ日本人だけの戦没者追悼式なのだろう。白木に墨痕鮮やかに大書されるべきは、全国戦没者之霊ではなく、全世界戦没者之霊ではないのか。
 戦時中でさえ、シドニー港で自爆攻撃を敢行した日本の特殊潜行艇乗員の慰霊を、オーストラリア軍は荘重に取り行ったとも聞く。
 ここまで思い到って自分自身の発想に酔った傾きがあったが、天が下新しきものなしの譬の通り、遠く北条時宗が神風によって勝利したのち、同じような発想に基づいて鎌倉に円覚寺を建立、日本の戦没者はもちろん、壱岐、対島、博多などで残虐の限りをつくした蒙古の戦没者をさえ、懇ろに弔った事実を私は知った。去る三日の「天声人語」が取上げたように、佛教哲学の泰斗中村元文学博士は一九八五年一一月一〇日号の『ジュリスト』で日本の武士道では「勝者は敗者の屍骸に合掌して立去るのが常であった」と述べ、「われわれの祖先は、国と国との対立を越え、異なった宗教の相克を超えて、敵味方の冥福を祈ったのである」とも「この崇高な、和(やわらぎ)をいとしむ日本の伝統的精神」が明治の頃から失われたのではないか、とも指摘している。現に靖国神社がいい例だ。
 私は岩手県人だが、明治維新を直接招来した戊辰戦争で、東北列藩の多くは官軍と戦ったため賊軍の汚名を着せられた。靖国神社に祀られたのは政府の側に立って戦った者のみで、郷土の大先輩原敬がこの戦いを「政見の異同によるのみ、誰か朝廷に弓を引く者あらんや」と弁じても犬の遠吠えに等しかった。
 そこで私は追悼式だけでなく、靖国神社の在り方にも、日本のよき伝統に則って敵味方の弁別などを廃し、戦没者全員の合祀を求める。日本国内だけではなく、世界的な規模での戦没者の合祀を、だ。もしこれを靖国神社側が認めないならば、国を挙げて、新たな「和(やわらぎ)の園」を設け、これを二十一世紀以降の世界の聖地(メッカ)にしようではないか。外国からの大統領、首相級の賓客の「和の園」参拝に何の抵抗があろう。とすれば日本の天皇、首相の参拝に何の異論があろう。ここに向かって私たちが平和を誓い、祈願することこそ平和国家日本の責務でなくで何であろう。

(二〇〇一・八・六 第五六回 広島原爆投下記念日)






 ◆ 2000年11月15日


 司馬遼太郎は生前から売れっ子だったが、亡くなってから、更に売れっ子になったような観がある。読み返して、いい文章だなあと思うものに出食わすこと再三にとどまらない。最近『この国のかたち』という全六巻の著書をひもといて、感心することしきりだったが、第4巻中の「徳」と題する一文にはつくづく考えさせられた。
 私事で恐縮だが、私の名前の出典を次のように記している。

 『論語』のなかでも朗々と唱すべき名文とされる「以テ六尺ノ孤ヲ託スベク、百里ノ命ニ寄スベク、大節ニ臨ンデ奪ウベカラズ。君子人カ、君子人ナリ」(泰白篇)のくだりは、あたかも羯南のために書かれたようである。

 石川啄木の朝日新聞社への採用をきめ、今日の朝日新聞の基礎を築いた啄木と同郷の岩手県人で名編集長だった佐藤北江の春風の如き人柄について触れ、続いて津軽の出身者、陸羯南(くがかつなん)の人徳について述べている。
 司法省法学校の同窓だった加藤拓川は、外務省の役人となって渡仏する。渡仏に先立って郷里松山から拓川を頼って上京して来る甥の一切を羯南に頼んだ。それが松山中学四年修了の正岡子規だった。子規は大学を中退したあと、羯南のやっていた新聞社『日本』に入った。月給は入社の時15円、翌年20円になったというが、帝大の卒業生の初任給は40〜50円、最晩年になって、子規はやっと40円を得たというから安月給の見本みたいな所だった。最晩年といっても、子規の享年は僅かに35才だった。『日本』の経営はことほど左様に厳しい状況に置かれていた。
 それでいて羯南は人を惹きつけずにはおかない魅力の持主だったらしい。文人、言論人として後世名をなした三宅雪嶺、長谷川如是閑、杉浦重剛、福本日南、内藤湖南などは皆『日本』にいたのだ。
 司馬遼太郎は続ける。

 子規は死の前の数年はほとんど出社せず、自宅で臥たきりで、『日本』の俳句欄などの選をしたり、「墨汁一滴」などを連載したりした。
 病い(脊椎カリエス)の末期は凄惨なほどに激痛をともなった。ところが羯南がやってきて手をにぎってくれると、ふしぎに痛みがやわらいだ。
―徳のある人というのはそういうものらしい。という意味のことを、子規がたれかへの手紙に書いていたような記憶がある。"羯南という人からうけた恩をおもうと涙が出る、これは涙也"と、にじんだ筒所をまるく墨でかこんだ手紙もあったような気がするが、いまは資料を確めるのを怠っておく。死の前々年の明治33年、熊本の夏目漱石へのながい手紙のなかで、「・・・・ソレデ陸氏ノ言ヲ思ヒ出ストイツモ涙ガ出ルノダ、徳ノ上カライウテモ此様ナ人ハ余リ類ガナイト思フ」というあたり、いつ読んでも胸がせまる。

 生前の陸羯南という人に一目会いたかったと痛切に思わせる文章だが、同時に私は恩を受けてそれを率直に述ベ、恩義を忘れない明治人の気概に胸打たれる。
 私が9才の時、34才で亡くなった母の死病が実は脊椎カリエスだった。戦前戦中の日本の代表的な病気といえば、結核に指を屈するだろう。結核菌の多くは日本人の肺をむしばんだが、少数ながら母や子規のように脊椎をやられ、生命を落とす者もいた。「未期は凄惨なほどに激痛をともな」うという司馬遼太郎の言に偽りはなく、木造2階建の家の2階に病臥していた母の最期の頃は、2階どころか1階の襖の開け立ての都度それが響いて激痛が走ったというし、更に進んでは、自分の瞼の開閉の郡度、痛みに苦しんだという。折悪しく、私の幼時わが家の女中だった者が、乳飲み児を抱えて来訪したのがまさにその時で、赤児の泣き声が母をいたく苦しめていたのを、幼い私は胸を締めつけられながら見ていた。
 晩年の父は、こんなことを語った。「お父さんはあの時の自分に勲章を贈りたい。それは、お前たち兄妹をお母さんの結核菌から守りきったからだ」
 妹も私も、確かに母から感染しなかった。しかし母との接触もまた上手にさえぎられており、そうとは意識しないながらも淋しい子供時代を過ごしていた。
 司馬遼太郎のこの文章に出会って切ない程の懐しさの中で私は病床の母に想いを馳せていた。
 自分に陸羯南のような徳は、今も昔もありはしない。しかし何であの時の自分は母の手を握りしめてやらなかったのだろう。自分のではなく母の徳が、私との握手を通じて母の激痛を些かでも和らげさせたのではなかったろうか。今更詮ないことながら、悔んでも悔やみきれない中で悔やみ続けている。






 ◆ 2000年10月30日


 外村(とのむら)繁という滋賀県出身の作家がいました。私の学生時代、新宿の呑み屋でこの人が静かに盃を傾けているのを何回か見たことがあります。いつも和服を着て、冬になると俗に「トンビ」と呼ばれていた外套の一種「インバネス」に身を包んで、あまり油気のない頭髪をオールバックにした鼻陵の高い端正な面立ちの人でした。
 少年の日、外村繁少年は僧侶であったおじのもとに預けられていたそうです。おじは僧侶のくせに爬虫類が大好きで、蛇やトカゲを飼っていただそうです。外村繁少年の日課は、おじから預った餌を彼らにやることでした。餌は、生きた鼠であり、蛙であり、蛇やトカゲの常食する好物です。蛇やトカゲのいる檻の中に入れると鼠も蛙も悲鳴をあげ、絶叫しながら必死に逃げ惑います。とどのつまり蛇やトカゲの餌食になってしまうのです。
 残酷この上ないこの日課が、外村繁少年は厭で厭でなりませんでした。この日課から逃れたく、解放されたくてなりませんでした。そこである日おじさんにこう申し出たそうです。「この日課を僕にもうさせないで下さい。そのかわり、今日から肉と名のつく物は死ぬまで食べないことを約束します。魚も鳥も、四つ足の動物も、みんなです。だから、どうか僕に鼠や蛙を渡さないで下さい」
 事実外村繁少年は、生き物の肉に食欲を感じなくなっていました。言葉に嘘はなかったのです。じっと聞いていたおじは口を開きました。
 「それならお前は何を食べて行くのかね。結局、野菜や穀物ということになるね。しかし野菜も穀物も生き物だよ。生命がある生き物だよ。死ぬ時、殺される時、悲鳴をあげないのが違うだけで、生き物であることに変わりはないのだ。肉を食べないのなら、野菜や穀物を食べて行くほかないではないか」
 外村繁少年は黙ったきりでした。抗弁のしようがなかったのです。
 「人間の生命はこのように、他の動植物の種(しゅ)の犠性の上に成り立っているのだ。夥しい数の生命の犠性の上に成り立っている。だから、人間の生命がどれほど尊い物が計りしれないと思え。生命が尊いということは単に尊いというにとどまらない。生ある限り、どのような生き方をするのか、どのように生命を燃焼しつくすのか、ということにかかっている。いかに生くべきか――これだ」
 以上はある通夜の席で、読経のあと、読経を終えたお坊さんのした講話の殆どすべてです。私は深い感銘を受け、自来このお坊さんを名僧知識として尊敬し続けています。






 ◆ 2000年10月27日


 私は第二次世界人戦の終結した昭和20(1945)年には、旧制中学の一年生でした。それまで叩き込まれたことは、いついかなる時でも自分の生命を投げ出す準備と覚悟をしておくということでした。「天皇陛下のため」、「御国のため」という掛け声のもとでしたが、要するに私たち日本人一人一人の生命はそのように捧げるべきで、それが最高の道徳だと思い込まされていました。
 小さいながら「鴻毛よりも生命は軽く」というむずかしい表現も覚えました。鳥の毛よりも生命は軽いというのです。そして、私も含めて誰でもそのような考えを不思議と思っていませんでしたから、もちろん抗弁もしませんでした。
 その反動なのでしょう。それ以降の日本の教育は、最重点が「生命尊重」に変わりました。生命ほど大切なものはこの世にない。これ以上に貴重なものはない。どんなことがあっても生命だけは守らなければならない。――そういう教育が徹底されました。その結果、自分の生命を守るためならどんなことをやってもいい、いかなることも許されるという、妙な定理めいたものが出来上がりました。
 しかし、これは正しいことでしょうか。生命を完壁ならしめるためなら、他人を落とし込んでも裏切っても、どんなことをしてもいいのだ、ということになってしまったのではないでしょうか。それが平気で人殺しをやったり、他人のお金を騙し取ったりすることにつながるのではないでしょうか。
 私は、実は生命が最も尊いものだとは思っていません。もちろん生命が尊いものであることは私も認めますが、その生命を投げ出してもなお貫かなければならないもの、守り抜かなければならないものがあると思うのです。武家制度のもとにあって、婦人は必ずしも一人前の扱いを受けていたとはいいがたいのですが、それでも武士の妻や娘は懐剣を帯に入れ、常にその柄を胸元に出していました。何ぞの時の護身のためでもありますが、同時に女ゆえ、理不尽な暴力によって意に添わぬことを強いられた場合の、自殺のためのものでもありました。
 人間には人間らしく意志を貫く権利があります。それを時として力づくで否定や否認されることもあるのです。その時こそ生命を的にして、生命がけで白己を貫徹すべきなのです。それをしなければ長いものに巻かれろの横行する、強い者の天下になっていく以外ないではありませんか。
 重ねていいましょう。生命を捧げてなおかちえなければならないものが人生にはあるのです。それが何であるか、人により、時により、所により、それは千差万別のはずです。ところが戦前、戦中の日本では「天皇陛下のため」、「御国のため」に生命を捧げるのが当然のこととされたわけです。日本人は知らず識らずのうちに、そのように飼いならされていったといってよいでしょう。それは画一的な価値観といってもいい時代でした。ところが今は全く違います。個々人の選択によって、何に生命をかけるか自由なのです。これこそ自由主義のよさであり、自由主義のゆえんでもあります。そして何を生命がけの対象にするか、あやまちなき選択を可能とするのが教育というものではないでしょうか。教育の重要性とその急所はまさにここなのだと指摘しておきたいと思います。