遠野の人・新里貫一




遠野の人・新里貫一 (上)


 南カリフォルニア大学(通称南加大学)は、ロサンゼルスにある。わたしは、そこの留学生だった。
 アメリカのカリフォルニア州は日本全土がすっほりと入ってしまう面積を有し、もともと日系人が多く移住していた町だが、戦前は日系人に土地を売ることを禁じた排日土地法が施行され、日系人が辛酸をなめさせられたうえ、日米開戦直後にはカリフォルニア州にいた日系人すべてが移送されて、内陸の別の州に追いやられ、急ごしらえの強制収容所に入れられた。
 無人の原野に木造バラック群が建てられ、そこにはとんど着のみ着るのままの日系人が押し込めれた事実は、日本でも昨今のテレビ報道などで広く知られている。強制収容所内にはプライバシーがなく、性生活の場が失われて困ったという話も聞いたことがある。
 日本人は熱烈な愛国心の持ち主なので潜在的なスパイであり、アメリカ西海岸のカリフォルニア州に日本軍が上陸しようものなら、これと相呼応、蜂起すること間違いなしとして、当時のアメリカ政府はこの挙に出たのだった。
 戦時中、日系二世部隊が編成され、欧州戦線に送られた彼らは勇猛果敢に戦い「ニセイ」の雷名をとどろかせたが、多くの者が戦場にたおれ傷ついた。日系人のアメリカヘの忠誠心は認められ、日系人自身の地位も高められたが、それはこのように血によって贖(あがな)われたものだった。
 戦争が終わると、日系人は古巣に戻ることができた。わたしが行ったころのロサンゼルスには日本人街があり、ホンヤと看板をかけた日本語の本を売る書店があったり、二十世紀最大の文豪トーマス・マンの写真をショーウィンドーに飾る写真館のほか、日本映画を上映する映画館、和食を売り物にしている小食堂などが軒を並ベ「リトルトウキョウ」(小東京)を形づくっていた。
 わたしが知って驚いたことは、岩手県からの移民がほとんどいないことだった。沖縄、広島、岡山、和歌山などの出身者が多いのに、貧乏県で知られた岩手からの移民の寥々たる数はどうしでも解せなかった。
 そんな中で、わたしは二人の岩手県人の名前を探し出した。一人は遠野出身の新里貫一、一人は花泉出身の鵜浦小二郎だった。電話であらかじめ都合を確かめて出向いた新里貫一氏のお宅は、ロサンゼルス旧市内の閑静な住宅地の小さい質素な造りの家だった。
 呼び鈴を押し、玄関の扉を開けると、いすから立ち上がった老人がソロソロと近寄ってきて「わたしが新里貫一です」と名乗り、招じ入れられた。
 わたしは屈強な姿形(すがたかたち)の人を想像していたため何となく拍子抜けした。小柄なうえに華著(きやしや)で見るからに弱々しかった。黒めがねをかけた目をふと見ると、俗に言うサイカチ眼でひどく落ちくぼんでいた。要するに見すぼらしい老人なのだ。
 自ら進んで訪ねてきたくせに、わたしはなぜこの老人に会いにきたのかと自問しながら後悔めいた気待ちになっていた。
 自己紹介のあと、疑問としていたところを早速新里氏に向けてみた。岩手県出身のひどく少ないことについでだった。
「それぐらい、岩手県の人は貧乏だということです。移民をたくさん出した県は、渡航のための支度金を出せたのです。岩手県には、それがありませんでした」
 アメリカに渡ってきた岩手県人自身の口から出た言葉だ。重みがあって、わたしは身が縮まるのを覚えた。
「移民は自嘲交じりに『移民ではない、棄民だ』と言います。祖国から棄てられた民、という意味です。岩手県人は、その棄民にもなることのできない貧乏を強いられていたのです」
 新里氏の声は、咽喉(のど)に痰(たん)がからまったような発音なので最初は聞きづらかったが、やがて熱を帯びはじめ、わたしも話に引き込まれていった。

(これは、「盛岡タイムス 平成11年(1999年)7月6日」に掲載されたものです)





遠野の人・新里貫一 (下)


「あなたは日本人街の近くに、チャイナタウン(中華街)やメキシカンタウン(メキシコ人街)のあるのをご存知ですね。なせあそこが、そうなのか分かりますか。あれは飯場の跡なのです。日本人街の正面にヤシの木の立ち並ぶ広場の彼方に、サンタ・フェ鉄道のロサンゼルス中央駅がありますね。その鉄道敷設工事の土方人足として、たくさんの日本人、中国人、メキシコ人が連れて来られました。その生活の場だった飯場の跡なのです。荒くれ者ぞろいでしたから、日本人の飯場は喧曄が絶えません。酒は飲む、博打は打つ、女は買うのお定まりの三拍子です。この有様を見るにつけ聞くにつけ、私は日本人としていたたまれない思いをしました。何よりもます、人としての在り方に欠けている、と思いました。私は単身乗り込んで、荒くれ男たちを前にして、神の愛を説き、キリストの救いを告げました。私は宣教師なのです。最初の反応は、せせら笑いでした。毎日毎日、私は続けました。そして、せせら笑いが怒りに転じ、次に憤りになりました。私はなぐり倒されました。失神して病院に担ぎ込まれましたが、退院するとすぐまた出向いて、神のお諭しを語りました。『性懲(こ)りもない奴だ』と叫んだ男になぐられ、前歯を折られました。前歯だけではありません。腕も、脚も、ろっ骨も、折られました。そのつど病院に担ぎ込まれ、半死半生の状態を何回となくくぐり抜けました。この眼もなぐられて、今は明暗が分かる程度の視力しかありません。しかし私は屈しませんでした。叩かれても、なぐられても、蹴飛ばされても、神が私についておられることを信じておりました。そしてついに勝ったのです。彼らは私に手出しをしなくなりました。それまで遠巻きにして寄りつかなかった多くの同胞が、近づいて来るようになりました。そして日本人街が形づくられ、作り上けられたのです。この勝利は神の勝利でした。私は神の御業をたたえ、アメリカ全土に宣教の旅をして回りました」
 この老いさらばえ、見栄えのしない人の、どこに烈々たる情熱かあるのだろうと、目を瞠(みは)る思いだった。
 私か新里貫一氏にお目にかかったのも口をきいたのも、これが最初で最後だった。あとで知ったことだが、氏は私がアメリカからスペインに渡ったあとの、昭和三十七年六月十一日に亡くなっていた。
 ただの一度とはいいながら、この時の新里貫一氏の印象は強烈そのもの、論より証拠、鮮明にこの時のことを覚えているのだ。
 過日、私は本紙の藤井社会学芸部長に新里貫一氏について話したが、「今では県人でも名前すら知らないでしよう」ということだった。それから間もなく藤井氏から『新岩手人』に掲載された新里貫一氏の資料か送られてきた。『新岩手人』は戦前の月刊誌で、県内外の、特に県外の岩手県人向けの雑誌だった。筆まめな人だったとみえて、新里貫一氏は『新岩手人』に何度となく寄稿していた。それはすべて在米岩手県人の動静を伝えるもので、これによって消息を知ったり知られたりした人はもとより、祖国から忘れ去られつつあるのではないかという不安を抱えている在米の岩手県人にとって、これがどれほどの励ましと安息になったか、計り知れない。新里貫一という人は、こんな細やかな心配りもしていたのかと、胸が熟くなった。
『新岩手人』昭和十四年二月号掲載の新里貫一氏の筆になる「北米通信」の中に、
 鵜浦小二郎(一関)
 牧師として特に第二世指導としての一人者。二令息は大学に通学中です。
 とある。鵜浦小二郎は数少ないロサンゼルス在住の岩手県人の、新里貫一と並んで私の探し当てた名前だった。あらかじめ電話をした結果、今度の日曜日に来てほしいといわれて、その日私は出向いた。
 私の住居からほど近いキリスト教教会の主が鵜浦小二郎牧師で、日系一世の信者を担当し、日曜礼拝を終えたところだった。子息も牧師で、日系二世や英語を母国語とする信者を担当、日系一世のあとの日曜礼拝を主宰しているということだった。しかも父子そろって私の留学先の南加大学の卒業生だった。
 昼食は牧師夫人の心づくしで、のり巻き、いなり寿司、焼き鳥、おひたし、いずれも日本なしには考えられない食べ物ばかりだった。聞けば鵜浦牧師は花泉(新里氏の記述「一関」は誤り)、夫人は一関の出身者だった。「私は岩手県立一関高等女学校の卒業生で、丸一旅館(現在の大町キリンヤの所にあった)の奥さんと同級生です」と夫人は言った。
「こちらも岩手県人。花泉の人です」といって、同席していた老人を鵜浦牧師は私に紹介した。
「熊谷古次です」
「ご出身地は花泉のどちらですか」
「金沢(かざわ)です」
「金沢なら、舞石屋をご存知ですか。あそこの爺さんが舞石古治といい、あなたと同名ですが」と私は聞いだ。
 父の秘書の父親が紛れもない舞石吉治氏、地元の有力者だった。
「おれの小学校の同級生。あれはキカネェ吉治、おれはおとなしい吉次」
 その巧まざるユーモアが同席者の笑いを誘った。
 新里貫一氏の残した文章が、思いがけない思い出を今、私に蘇らせてくれた。

(これは、「盛岡タイムス 平成11年(1999年)7月7日」に掲載されたものです)





 
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