世界の日本、日本の世界



 私の同級生は昭和七、八年生まれです。私どもの感覚からして日露戦争は実に遠い遠い彼方のような気がしているのですが、日露戦争は私どもが生まれた時から遡って二十七、八年にすぎません。ところが大東亜戦争が終わったのは半世紀以上も前のことです、そう考えると、今の若い人たちは大東亜戦争をどんな昔のものだと思っているのだろうかという気持ちをあらためて持たされます。私どもは大東亜戦争を身近に感じていますから、若い人たちにも自分たちと同じように判って貰えると思い込んでいますが、それは錯覚です。
 今日から遡って二日前の十二月八日はまさしく大東亜戦争勃発の日です。昭和十六年のことです。私どもの小学校の担任は、山崎正志という先生でした。戦争が始まるまでは、学校へ行くと「戦争にならないで欲しい。心配でならない。戦争だけは避けたい。何とか戦争にならないで欲しい」ということを私たち年端のいかない者たちを相手に、真剣におっしやっていたのを思い出します。
 十二月の八日は暗いうちから大本営発表の「本十二月八日未明、帝国陸海軍は、西太平洋上において米国及び英国と戦闘状態に入れり」が繰り返しラジオで放送されていました。それを聞いて私どもは登校したのですが、山崎正志先生はもう「こまった。こまった」などとはいわず、「いよいよアメリカと戦争が始まった。日本は負けてはいられない。全力を尽くしで戦わなければいけない。みんな頑張ろう」と実に決然たるご挨拶でした。戦争に反対だとか心配だとかいうことを戦争が始まった途端におっしやらなくなりました。私はこれは雄々しい、日本人らしいありかた、生さ方ではないかと子供心にも銘記したのですが、その後の日本の状態を見ると正に寒心にたえません。戦争に負けた時、大人たちは全部百年来の民主主義者みたいなことを言い出したのです。大人たちは大東亜戦争には反対だったと言い出したのです。私はその時から大人不信、世の中に対する激しい厳しい不信感を植え付けられました。私は開戦後間もなく転校、軌を一にして退職された山崎先生が、その後どういうことをいっておられたか知らないのですが、山崎先生たけは情けないことはおっしやらなかったと思います。
 私は共産主義とかマルクス主義にかぶれたことはありませんが、マルクスの次の言葉だけは今でも金科玉条にしております。それは「総ては疑いうる」です。要するに既成観念、既成概念というものを信じでいたならば世の中一歩も進まない、既成観念、既成概念を一つ一つ検証しないといけない、という意味たと思うのですが、この「総ては疑いうる」という言葉は本当に素晴らしい言葉です。大束亜戦争の敗北の中から私の得た最大の収穫はこれでした。
 今から何年か前、親戚の女が胃癌ですっかり痩せさらばえ、今日亡くなるか明日亡くなるかという時に、お見舞いに行くと、女の息子が沈痛そうな顔もせず傍らにケロっとした顔をしているのです。私は女が亡くなった後に、息子に聞いてみたのですが、「お袋が死ぬなんて夢にも信じでいなかった」と言うのです。私はこれを聞いた時、胸を塞がれる思いがしました。子供はそこまで父親母親ともに絶対の存在として信じているのだと、自分の幼かった時の両親に対する思い出が蘇って来ました。大人とは両親と同年輩の人たちです。大人への不信の念は、天地が逆転したような思いと同じでした。
 驚くべきことが、その後もう一つありました・日本とアメリカとの間でもっとも大きなパイプ役だったダグラス・マッカーサー元帥が、朝鮮動乱を巡ってトルーマン大統領と対立、遂に罷免されてアメリカに戻りました。そしてアメリカの上院外交軍事合同委員会に呼ばれ、証言を行ったことです。マッカーサー元帥の証言の最後の部分はこうです。
 「したがって彼らは戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に追られてのことであったのです」文中の「彼ら」とは、日本人のことです。占領軍の最高司令官であるマッカーサー元帥は、日本を裁くための東京裁判所を設けさせ、目本の戦時中の指導者二十五人を裁いて、七人までも絞首刑に処した最高責任者です。大部分が安全保障の問題を大東亜戦争の動機たとするならば、七人も何で処刑しなければならなかったのでしょう。
 このように世の中は既成の観念とか概念にとらわれていると間違えるとがあるのです。今の風潮では、日本が何もかも悪い、侵略戦争をやった、だからお詫びをしなければならない、日本はどんなことがあっても頭が上がらない、ということでしょうが、こんな発想ではおかしいのです。これはマッカーサー元帥が自発的に喋ったもので、日本の最高指揮官、日本で言えば天皇陛下か内閣総理大臣と同じような立場の存在として、国家運営をやってみて、なるほど東京裁判で裁かれた連中がやったことは不合理、非人道的の一言で片づけられないものがある、これは容易ならざることたと、気がついたのでしよう。
 青年海外協力隊という集いがありますが、その結団式が年に四回あります。若手の代議士だった頃に何回も招かれて、私はその都度祝辞を述べました。その祝辞の中味を簡単にいうとこうです。「人間にはどうしても不可能なことがある。自分で自分の顔を直接見ることもその一つで、鏡とか水とかの反射物によってしか見ることができない。同じように、日本人が真に日本や日本人を知りたい時には日本や日本人だけを見ていたのでは駄目で、外国や外国人を知らなければいけない。もちろん日本の国内にいて文献を読んだり、言葉を勉強したりして海外のことを勉強することは不可能ではない。しかし海外に渡って知るのが一番手っ取り早い。諸君はまさにそれが出来るパスポートを手に入れたのだということを知って欲しい。あの人は国際人だとか、国際的だとかというが、それは海外に行って一日でも多く海外に居たとか、一カ国でも多く訪れたとかいうことを意味するのではない。日本人が海外に行って日本というものをより深く、より広く知ることに外ならない。海外を知るということは、鏡で自分自分の顔を写すのと同じなのだ。元気で行ってらっしやい。そして元気で帰ってらっしやい」
 日本が大東亜戦争に踏み込まないですむ途がなかったかどうか私は考え続けて来ました。一九二四年十一月二十八日、中国革命の父といわれる孫文が、神戸で大アジア主義と題する講演をやっております。その講演の極く一部ですが、次に述べます。
 「あなた方日本民族は欧米の覇道の文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質を持っています。日本がこれから後に世界の文化の前途に対して一体西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の砦なるのか、あなた方日本国民がよく考え慎重に選ぶことにかかっているのです」これはこの孫文の講演の急所中の急所です。要するに日本は帝国主義の仲間になってアジアの先進国、別言すればアジアで最も嫌われる存在になろうとするのか、それとも我々アジアの遅れている連中の先頭に立っで我々を擁護してくれる立場になってくれるのか、どちらなのだというのです
 列強は全部孫文の言う覇道の国、分かり易い言葉で言えば帝国主義の追従者でした。帝国主義とは自国の領土拡大を目指す主義です。日本はそれが正しいことと信じて夢中になってやって来たのですが、ヨーロッパの連中は日本よりも先にこの経験をしていたために、なるべく摩擦を起こさないようにしながら領土を獲得、お互い国際協調をやるようになっていました。日本は新参者ですから、国際協調よりも、帝国主義の列強に追いつけ追い越せに夢中で、領土を取ることに一所懸命、国際協調は一向に意に介さなかったと言ってもいい状況でした。
 その結果、結局日本が狐立の道に入って行ったのです。理想主義的で結果論的なことをいう人は、日本は孫文の大アジア主義の教えに則って、アジアの兄貴分に終始すればよかったというのです。できればこれに勝ることはありません。しかし時の勢いでしょうか、列強が皆走っている中で日本だけが走るのを止めることは出来ません。ですからこれは言うは易く行なうは難い、理想主義的で結果論的なモノ言いで、評論家の言としかいいようがありません。
 このようにして日本は大失敗を冒しました。戦後は諸外国とくにアメリカのやり方を見て「ああこれか」と大量消費を真似、経済万能主義に狂奔して日本はその方に今流されています。これはかつて帝国主義にのめり込んで行った時と同じ道筋に日本があるのではないでしょうか。私たちも欲望の動物ですから、お金が入って来るのを自ら捨てて、聖人君主のような禁欲生活に入るなどということは無理です。私たちはいずれ終わり、子々孫々が生きて行くのです。子々孫々が生きて行く上において生きにくくなったり、生きて行けなくなるような条件を私たちが作っておくことは詐されません。ですから私どもはこの地球上に、子々孫々が生きて行き易い条件を作るべきなのです。一番大事な基礎的なものは空気と水です。水は環境汚染の中で健康にも悪いだけではなくて、いろいろな問題に波及しています。最近はやり言葉みたいに言われている環境ホルモンなどという人類が絶滅する虞のある物も出て来ています。
 今取組まなければいけないのは環境問題です。環境というと簡単に考えてしまうのですが、これは人類一人一人が自覚を持って立ち向かわない限り、解決の出来ないシロモノです、お銚子に並々とお酒を入れてお燗をすると、暖まるにつれでお酒は脹れ上がって、お挑子の口の少し上まで盛り上がります。要するに、暖かくなると水も増えるわけです。地球温暖化を促進するCO2(二酸化炭素)が増えると、太平洋でも、大西洋でも、水が増え、更には南極、北極の氷山が解け出します。そうするとまた水が増えます。結局、人類の生存圏の陸地が狭められるということになります。水は海岸線から競り上がってくるだけではありません。川の両岸も内陸の沼も湖も水かさが増えます。これを防ごうと思って、コンクリートで提防を築いても、お金がべらぼうにかかります。人類の経済力では不可能でしょう。
 世界中が同じようなレベルで生活をしたいと思っていても、現実には世界中の生活レベルは均一にはいかないという例を指摘したことがあります。私の親しくさせて頂いている学者にレスター・ブラウン博士というアメリカのワールドワッチ研発所の所長がいます。中国の総ての家庭に、一台ずつ自家用車が行き渡ったとして、日本やアメリカ並みに自動車も縦横に使えた場合、一日の中国のガソリンの消費量は八、○○○万バーレル、地球上の石油の生産量は一日六、四○○万バーレル、という試算になるそうです。それでは中国は日本やアメリカ並みの生活ができないことは明々白々です。
 中国では夫婦は、子供を一人しか生んではいけないと決められています。一人だけという少子化政策は二人以上では食べさせられないということです。それは土地問題、農地問題と関係があるから、自動車が各戸に行き渡ったなら道路、高速道路、駐車場を設けなければなりませんが、これは少子化政策と真向から対立する話です。中国は自動車を中心としたアメリカナイズされた生活様式を取り入れられない国情にあるのです。だからどのようにしてやって行くかを、みんなで考えていかないと、中国は安定しないのではないかと、私は真剣に考えさせられています。
 アメリカは大量消費によってたくさんのお金を一気に稼ぐというシステムを構築し、拡大につとめました。岩手県は葉たばこ生産の第一の県です。私は今まで葉たばこ生産者のためにいろいろやりましたし、勉強もやって来たつもりです。葉たばこがアメリカでも作られ、売ったり、買ったりして、アメリカのたばこ産業は大企業です。今、日本にアメリカのたばこが上陸してよく売れております。最近のたばこは非常に軽く、マイルドと言われています。昔はたばこ一本で十分だったものが、今の軽い煙草だと三本も五本ものまないとカバーできないようになっているわけです。たばこの消費がそのために猛烈に進みました。軽くすることによってたばこ産業が非常に栄えたのは、アメリカの資本主義が爛熟した論より証拠だと考えます。
 その結果、これ以上ニコチンを少なくしたらば煙草でなくなりますし、またたばこらしい風味がなくなりますから、行き着く先に困ってしまうわけです。最近は男の喫煙者が減り、反面女の喫煙者が増えていますが、だからといってたばこの消費が伸びるというわけでもありません。それが、たばこ産業に象徴されるアメリカの大量消費の現在の姿です。
 さきに世界環境会議が京都で行われました。大きな印象を私どもに与えたポイントは、アメリカが国際環境会議に腰が引けでいたことでした。環境問題を重視することによって経済がスローダウン、その結果アメリカの経済が混乱してしまうからです。国際的な環境基準を世界各国と共同歩調でやったり、一緒に背負い込んでいくことは困るということなのです。日本はアメリカに見習って来たために悪い所まで似てしまったのですが、日本は帝国主義時代に列強に倣ったことへの反省から、価値観を切り替えてもいい時期に来ていると思うのです。アメリカよりも日本の方が環境先進国だという方向に、ギアを入れ替えるところに来ていると私は考えるのです。
 ナイチンゲールが活躍したロシア・トルコ戦争でトルコはロシアに完敗しました。その痛み、口惜しさの中で、日露戦争に勝った日本へのトルコの眼差しは憧れと兄貴を見るようなものだといってよいでしよう、日本を兄貴のように見ている国は少なくないのです。
 その多くが、アジアに存在しています。その中に日本の痛めつけた国が結構あるのです。それを思えば、帝国主義時代の日本の歩みは反省しなければならないと思うのです。そこで環境問題は大きな手がかりとならないだろうかと考えます。環境問題と豊かな経済生活とは相反するように思われがちですが、環境問題を重視することによって、我々の生活を豊かにすることができないだろうか、それがこれからの日本の目的にならないだろうかなどと、考えでいます。
 最近いい話を募集、特集している単行本があります。そういう本の一冊の中に、ある若いお母さんがお書きになった文章の概略を次に紹介します。「娘は重度の身障者です。学芸会があって、娘は桜の花のついた杖を持たされ、車椅子で身体を僅かに左右、前後に動かす程度でしたが、それを見ていたお婆さんが「しっかりよ、しっかりよ」と激励した後、あんたの踊りはすばらしかったと、心の底から褒めてくれました。三十何年間生きて来てもひとさまに与えたことのない感動を、年端のいかない重度の身障者の娘がやったことが嬉しくてなりません」そしである日「ママ」というので「何」と問いかえすと「ママ、生まれて来てよかった」と娘が言ったというのです。
 私はここまで読んだ時、涙が噴き出しました。お母さんが最後に「どうかこの子が大人になってからも、今と同じ言葉が言えますように…」と書いているのです。
 どんなに不自由なからだの子であろうとも、この国の人間でよかったと思えるようにしなければいけないと私は思っています。そのためには、今、環境国家と申しましたが、それは同時に道義にあつい国でなければいけません。弱い者の味方であり、横暴な者をうちひしぐ社会と国を造らなげればいけないのです。それが私は環境国家の目指すところではないかと思うのです。
 私たちは、心の優しい、デリカシーに富んだ道義国家、環境国家を造るべきではないかということを申し上げたいのです。そのための一人一人の自覚なくしては画に描いた餅にすぎません。
 以上を申し上げ、私の話を閉じさせて預きたいと存じます。
 ありがとうございました。






(これは、拓殖大学における1998年度の特別講座「産業と人間」で、12月10日に講師として行った講義の要旨です。)





 
ご意見、ご感想はこちらまで


戻る