日本・トルコの
今昔に思う



 古来「禍転じて福と為す」という言葉がある。
 去る八月十七日の大地震で、トルコは一万五千人を越す死者を出した。長年に亘ってトルコ・ギリシャ間は不仲をもって聞こえているが、この時、ギリシャ国内には同情が巻き起こり、ギリシャ政府は十二時間後に救援機を緊急派遣するなど、目ざましい救援活動を行った。
 ところが九月七日、今度はアテネを中心とするギリシャに、死者三百十九名に及ぶ地震が襲った。直ちにトルコの救援機が駆け付け、両国関係は著しく改善されたと報じられた。キプロス島の領有権をめぐって両国が自国の軍隊を投入、一触即発かと思わせる対峙の状態が続いているが、深刻なその状態を見て来た者にとって、それは感慨深く、また喜ばしい限りの朗報だ。
 このトルコ共和国が、大の親日国家なのだ。
 今日でもトルコ共和国国内の要所要所には、イスタンブール空港の貴賓室をはじめ、ケマル・パシャ(ケマル・アタチュルク)の肖像画、または肖像写真が飾られている。ケマル・パシャは、トルコ共和国にとって、救国の英雄だ。
 トルコの最盛期は、オスマン・トルコ大帝国の名のもとに、その版図は地中海沿岸国に双び、オーストリー帝国をも脅かした程だったが、衰退期に入ったオスマン・トルコ大帝国は、俄かに退勢を早め、滅亡の危機に瀕したのだった。この時に現われたのが、ケマル・パシャだった。
 旧弊を改め、新生トルコの前進を心掛け、見事に実現させたのが、ケマル・パシャだった。生涯独身を貫いて執務中に仆れ、、息を引きとったケマル・パシャが執務室に掲げて、絶えず視線を送りながら、「東方の英明なる君主に自分は倣う」といっていたその肖像は、明治天皇だった。祖国を危殆におとしめたロシア帝国に勝利した明治天皇は、ケマル・パシヤにとって畏敬の的だった。
 国父の畏敬する明治天皇のしろしめす国と国民を、どうしてトルコ国民が敬し、愛さない筈があるだろう。
 一九九○(平成二)年、日本トルコ修好百周年記念に際し、この間、両国の友好親善に尽くした数少ない者の人として、トルコ政府から私は表彰されたが、日本トルコ修好百周年をトして、何よりもまず待筆大書しておかなければならないことがある。
 一八八七年に日本の皇族が、オスマン・トルコ帝国を訪問したのを承けて、一八九○年六月、エルトウルル号は初の使節団を乗せ、横浜に入港して三ケ月もの間、友好親善の実績をあげ帰途に着いたが、途中、台風に遭遇、和歌山県の串本沖で沈没、六百人近くが亡くなり、約七十人が助かるという大惨事になった。
 台風直撃のもと、救援活動は困難をきわめたが、和歌山県沖に浮かぶ大島村民の必死の救援は人道主義を文字通り、地で行く姿だった。自らの肌でトルコ人の肌に暖をとらせ、蘇生させたのだ。なけなしの甘藷や鶏を措し気もなく提供、元気をつけさせたのだ。まさに涙の出るような人類愛に燃えた行為の数々だった。
 生残者七十名が、日本側の手厚い看護ののち、日本船で無事、トルコに帰国したことは言うまでもない。日本国内では犠牲者と遺族への義援金も集められ、遭難現場附近の岬と、地中海に面するトルコ南部の双方に慰霊碑が建てられた。この遭難事件は、トルコの歴史の教科書にも載っている。
 サダム・フセインの名が大きく浮上して来たのは、湾岸戦争の時が初めてではなかった。八年間に及ぶイラン・イラク戦争(一九八○〜一九八八)の真っ只中の一九八五(昭和六十)年三月十八日、イランの上空を飛行すれば民間機であっても撃墜すると、イラクのサダム・フセイン大統領は、警告を行った。勝敗の明らかにならない長引く戦闘に、しびれを切らしての決定であったと思われる。
 外国航空の特別便が一部運行することになったが、自国民優先のため、在留日本人は弾き出されてしまった。
 日本の外務省は日本航空に救援を依頼したが、「帰りの安全が保障されない」として受け入れられなかった。
 "万事休す"と思われたこの時、トルコ航空機がイランの首都・テヘランに乗り入れ、邦人二百十五人を救出してくれたのだ。時に三月二十日、サダム・フセインの警告から三日目のことだった。
 トルコ側の好意を、日本の経済援肋に帰し、従来以上の援助額を望む姿、と受け止めた報道があった。これが、現代日本人の貧困の極に達した心から発した言葉かと、目を覆いたくなった。
 日本人は今こそ、人として、民族として、「品格」を重視しなければならない秋(とき)に未ているのではなかろうか。




(これは、「月刊日本 11月号(1999年)」に掲載されたものです)




 
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